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西晋に仕え、長沙王[[司馬乂]]の配下であった。果断剛烈をもって知られた[[高誕]]([[高柔]]の子)を信任し、上官巳の推挙により高誕は[[徐州]]刺史・[[雍州]]刺史を歴任したという。
西晋に仕え、長沙王[[司馬乂]]の配下であった。果断剛烈をもって知られた[[高誕]]([[高柔]]の子)を信任し、上官巳の推挙により高誕は[[徐州]]刺史・[[雍州]]刺史を歴任したという。


[[304年]]、河間王[[司馬ギョウ|司馬顒]]・成都王[[司馬穎]]らが司馬乂を殺害すると、朝廷を牛耳って政治を大いに混乱させた。上官巳は東海王[[司馬越]]・右衛将軍[[陳眕]]・殿中中郎[[逯苞]]・[[成輔]]と共に、司馬穎を討伐を目論んで謀議を重ねた。
[[304年]]、河間王[[司馬顒]]・成都王[[司馬穎]]らが司馬乂を殺害すると、朝廷を牛耳って政治を大いに混乱させた。上官巳は東海王[[司馬越]]・右衛将軍[[陳眕]]・殿中中郎[[逯苞]]・[[成輔]]と共に、司馬穎を討伐を目論んで謀議を重ねた。


7月、上官巳らは[[恵帝 (西晋)|恵帝]]を奉じて四方へ檄を飛ばし、司馬穎の守る鄴へ向けて軍を発すると、各地で義兵が集結し、魏郡の安陽県に入る頃には10万人余りに規模が膨れ上がった。だが、皇帝軍は蕩陰に進軍した所で奮武将軍[[石超]]の奇襲を受けて大敗を喫し、恵帝は捕らわれてしまった。上官巳は陳眕と共に洛陽に帰還すると、[[皇太子]][[司馬覃]]を奉じてこれを固守した。
7月、上官巳らは[[恵帝 (西晋)|恵帝]]を奉じて四方へ檄を飛ばし、司馬穎の守る鄴へ向けて軍を発すると、各地で義兵が集結し、魏郡の安陽県に入る頃には10万人余りに規模が膨れ上がった。だが、皇帝軍は蕩陰に進軍した所で奮武将軍[[石超]]の奇襲を受けて大敗を喫し、恵帝は捕らわれてしまった。上官巳は陳眕と共に洛陽に帰還すると、[[皇太子]][[司馬覃]]を奉じてこれを固守した。

2020年7月31日 (金) 10:12時点における版

上官 巳(じょうかん し、生没年不詳)は、中国西晋の将軍。

生涯

西晋に仕え、長沙王司馬乂の配下であった。果断剛烈をもって知られた高誕高柔の子)を信任し、上官巳の推挙により高誕は徐州刺史・雍州刺史を歴任したという。

304年、河間王司馬顒・成都王司馬穎らが司馬乂を殺害すると、朝廷を牛耳って政治を大いに混乱させた。上官巳は東海王司馬越・右衛将軍陳眕・殿中中郎逯苞成輔と共に、司馬穎を討伐を目論んで謀議を重ねた。

7月、上官巳らは恵帝を奉じて四方へ檄を飛ばし、司馬穎の守る鄴へ向けて軍を発すると、各地で義兵が集結し、魏郡の安陽県に入る頃には10万人余りに規模が膨れ上がった。だが、皇帝軍は蕩陰に進軍した所で奮武将軍石超の奇襲を受けて大敗を喫し、恵帝は捕らわれてしまった。上官巳は陳眕と共に洛陽に帰還すると、皇太子司馬覃を奉じてこれを固守した。

司馬越が封国へ帰還してしまったこともあり、上官巳は洛陽の統治者となったが、彼は凶暴粗暴であり、城内で略奪を繰り返したという。その為、河南尹周馥司隷校尉満奮らは上官巳の謀殺を目論んだが、事前に発覚して満奮は殺害され、周馥は逃走した。

司馬顒は恵帝が鄴に入ったと知ると、配下の張方に洛陽占拠を命じた。これを聞いた上官巳は別将苗願と共に軍を興して張方を阻んだが、大敗を喫したため洛陽城内に退いた。だが、司馬覃が寝返って上官巳と苗願を夜襲したので、上官巳は城外に逃走して張方は洛陽に入った。

その後の動向は不明であるが、資治通鑑によると上官巳は東晋の将である趙固李矩郭黙らと互いに対立しあっていたとあるので、一定の勢力を保っていたものと思われる。320年6月、豫州刺史祖逖は使者を送って上官巳らを和解させると、諸将は祖逖の傘下に入ったという。その後の消息は不明。

参考文献