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[[290年]]4月、司馬炎が死去すると、司馬衷([[恵帝 (西晋)|恵帝]])が即位し、叔母の[[賈南風]]は皇后に立てられた。これにより、賈謐は皇族の[[外戚]]となった。
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[[291年]]3月、賈南風は当時権勢を振るっていた司馬炎の[[外戚]][[楊駿]]を妬み、[[宦官]][[董猛]]・[[孟観]]・[[李肇]]や楚王[[司馬瑋]]と結託して政変を起こすと、楊駿は殺害されてその三族及び側近の者は尽く捕らえられた。これ以降、賈氏一族は大きく躍進し、賈謐は国政の中枢に参画するようになった。賈謐は[[郭彰]](賈謐の曽祖父の兄弟に当たる)と共にその権勢が盛んになり、多くの賓客が彼の下を訪ねるようになった。賈謐は[[士大夫]]とも積極的に交流を深め、『金谷二十四友』<ref>[[石崇]]・[[欧陽建]]・[[潘岳]]・[[陸機]]・[[陸雲]]・[[繆世徴]]・[[杜斌]]・[[摯虞]]・[[諸葛銓]]・[[王粋]]・[[杜育]]・[[鄒捷]]・[[左思]]・[[崔基]]・[[劉瓌]]・[[和郁]]・[[周恢]]・[[牽秀]]・[[陳眕]]・[[郭彰]]・[[許猛]]・[[劉訥]]・[[劉輿]]・[[劉コン|劉琨]]</ref>という文学集団を形成した。この中でも、特に[[潘岳]]と[[石崇]]などは賈謐に媚び諂っており、その様は乗車する[[馬車]]の塵を拝むほどであったので、「後塵を拝す」という故事を生んだ。賈謐二十四友には[[陸機]]や[[左思]]・[[劉コン|劉琨]]なども含まれていた。また、この他にも数えきれないほどの取り巻きがいたという。


[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。司馬瑋配下の[[岐盛]]はこれに乗じて賈謐・郭彰を誅殺して権力を掌握するよう勧めたが、司馬瑋は応じなかった。賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。
[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。司馬瑋配下の[[岐盛]]はこれに乗じて賈謐・郭彰を誅殺して権力を掌握するよう勧めたが、司馬瑋は応じなかった。賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。

2020年7月31日 (金) 10:02時点における版

賈 謐(か ひつ、? - 300年)は、中国西晋時代の政治家。長深。元の名を韓謐という。父は散騎常侍韓寿。母は建国の功臣賈充の四女賈午

生涯

賈充を継ぐ

学問を好み、才覚があったという。

282年、母方の祖父である賈充が死去したが、彼には後継ぎとなる男子がいなかった。そのため、賈充の妻の郭槐は、外孫の韓謐を賈黎民(賈充と郭槐の子。既に死去している)の養子に迎え、賈充の後継ぎに立てた。だが、これは制に反しているとして多くの者が反対したが、郭槐は賈充の遺志であると司馬炎に上奏したので、賈充の功績に免じて特例で後継者として認められた。その為、韓謐は姓を改称して賈謐となった。中国では珍しい異姓養子の例である。こうして賈謐は朝廷に取り立てられ、散騎常侍・後軍将軍を歴任した。

290年4月、司馬炎が死去すると、司馬衷(恵帝)が即位し、叔母の賈南風は皇后に立てられた。これにより、賈謐は皇族の外戚となった。

291年3月、賈南風は当時権勢を振るっていた司馬炎の外戚楊駿を妬み、宦官董猛孟観李肇や楚王司馬瑋と結託して政変を起こすと、楊駿は殺害されてその三族及び側近の者は尽く捕らえられた。これ以降、賈氏一族は大きく躍進し、賈謐は国政の中枢に参画するようになった。賈謐は郭彰(賈謐の曽祖父の兄弟に当たる)と共にその権勢が盛んになり、多くの賓客が彼の下を訪ねるようになった。賈謐は士大夫とも積極的に交流を深め、『金谷二十四友』[1]という文学集団を形成した。この中でも、特に潘岳石崇などは賈謐に媚び諂っており、その様は乗車する馬車の塵を拝むほどであったので、「後塵を拝す」という故事を生んだ。賈謐二十四友には陸機左思劉琨なども含まれていた。また、この他にも数えきれないほどの取り巻きがいたという。

291年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮録尚書事衛瓘を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。司馬瑋配下の岐盛はこれに乗じて賈謐・郭彰を誅殺して権力を掌握するよう勧めたが、司馬瑋は応じなかった。賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。

権勢を振るう

こうして、賈謐は一族と共に天下を欲しいままにするようになり、近臣が重職に就くようになった。賈謐は賈南風と謀議し、張華が優雅で策略に長けており、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、侍中中書監に抜擢した。また、裴頠を侍中に、賈模を散騎常侍・侍中に、安南将軍裴楷中書令・侍中に任じ、右僕射王戎と共に政務を補佐させた。張華・裴頠らは賢臣であったので、共に力を合わせて国政を大いに安定させる事に成功した。

これ以降、賈謐の権限は皇帝をも凌ぐようになり、独断で黄門侍郎を処罰できる程であった。賈南風の後ろ盾を頼みとしその奢侈な様は度を越え、屋敷は臣下の身分を越えた豪華さであった。また、持ち物や衣服は珍しく麗わしいものばかりで、歌童・舞女は最も人気の者を選び、自宅で盛大に宴会を催すと国中から人が押し寄せた。豪族や外戚・浮競な者は豪遊の限りを行い、礼を尽くして賈謐に従わない人はいなかった。ある人は賈謐を賞賛する文章を表し、賈謐を賈誼(謐と字形が似ており、より良い意味の言葉となる誼に置き換えた)と呼称した。

296年夏、長安を守っていた征西大将軍・趙王司馬倫が洛陽に召喚されると、彼は賈謐に取り入るようになり、賈南風からも信任されるようになった。

同年、祖母の郭槐が亡くなり、賈謐は服喪の為に職を辞した。喪が明ける前に秘書監として復帰し、国史を掌握した。

以前、朝廷は『晋書』の制作にあたり、開始年をいつにするかで議論が起こった。中書監荀勗は魏の正始年間(曹芳が即位した時期)を晋の起源とすべしと主張し、著作郎王瓚は嘉平年間(司馬懿が政変を起こした時期)以降の朝臣を『晋書』に載録すべきであると主張し、まだ結論が出なかった。今、改めてこの議題を検討させるようになると、賈謐は上議し、泰始年間(司馬炎の即位年)で区切るべきであると主張し、この議題が三府に下されると、司徒王戎・司空張華・領軍将軍王衍・侍中楽広・黄門侍郎嵆紹・国子博士謝衡らは、この意見に同意した。騎都尉済北侯荀畯・侍中荀藩・黄門侍郎華混は正始年間を推し、博士荀熙刁協は嘉平年間を推していたが、賈謐は再度王戎・張華と共に上奏し、遂に泰始年間が採用された。

その後、賈謐は侍中に移り、秘書監もそのまま兼務する事となった。ある時、賈謐は恵帝の行幸に従い、宣武観での校猟(柵内に獣を放って行う狩り)に赴いた。この時、恵帝は尚書に命じて賈謐を呼び出すと「取り巻きの連中を用いるのはやめるように」と戒めた。この事が知れ渡ると、衆人は賈謐が異志(帝位簒奪の意思)を抱いているのではないかと疑うようになったという。だが、既に賈謐の権勢を止める事が出来る者はおらず、1族を2名も皇室に送り込み、恵帝であっても遠慮がなかった。賈謐と郭彰の専横により政事は腐敗し、賄賂が横行するようになり、官員は富を競うようになったという。南陽の魯褒は当時の風潮を風刺して『銭神論』を書いた。

吏部尚書劉頌は「九班の制(九級の官員試験制度)」を作り、試験によって百官を昇降させる事を上奏した。だが、賈謐と郭彰は官員任官による権力の制約を嫌い、百官も煩わしい試験に反対したので実行に移されなかった。

皇太子との対立

299年、賈謐は東宮で皇太子司馬遹へ学問の講義をするようになったが、司馬遹はこれを喜ばなかったので、賈謐はこれを恨んだ。また、賈謐は以前からしばしば司馬遹へ無礼を働いており、郭槐から窘められた事もあった。ある時、司馬遹と囲碁を行うといつも指し手の事で言い争い、一切遠慮が無かった。成都王司馬穎がこれに同席した時、賈謐の振る舞いを見て「皇太子は国の儲君であるのに、賈謐はなんと無礼なのか」と血相を変えて叱りつけた。賈謐はこれを恐れ、また不満を抱いたので賈南風へこの事を相談した。これにより、司馬穎を平北将軍に任じ、鄴城の鎮守を命じて朝廷から追い出した。

王衍の長女王景風は美麗であり、司馬遹は長女との結婚を望んだが、賈謐が長女を娶ったのでやむなく王衍の次女王恵風を妻とした。これにより、司馬遹は賈謐への不満をさらに積もらせた。

司馬遹もまた強情であり、賈謐との関係を改善しようと思わず、逆に賈謐が東宮に来ると後庭に隠れて避けるようになった。詹事裴権は「賈謐は皇后の近くにおり、溝が深まると危険かと」と諫言したが、改めなかった。そのため、賈謐は賈南風の前で司馬遹を讒言し「太子は私財を用いて小人と結んでおり、恐らく賈氏に対抗するためかと思われます。もし皇帝が崩御されたら、楊氏の時のように臣らは謀殺され、皇后は金墉に監禁されることになります。今のうちに手を打ち、恭順な者を跡継ぎに入れ替えるべきです」と述べると、賈南風はこれに同意し、司馬遹の欠点を周囲の前で公表した。

12月、賈南風は司馬遹を入朝させると、恵帝の命と称して三升の酒を飲ませ、酩酊状態に陥らせた。さらに、黄門侍郎潘岳に「太子と謝妃(謝玖、司馬遹の母)は共に議論し、恵帝と賈皇后を廃す事を決めた。その後、道文(司馬虨の字)を王に立て、蒋保林(蒋俊、司馬虨の母。保林は東宮の妃妾の等級)を皇后とする。これらを北帝に祈る」という文章を書かせると、司馬遹に筆と紙を渡し、詔と偽って同じ内容を書くよう命じた。酔いつぶれていた司馬遹はわけもわからず書き写し、賈南風はこれを恵帝に提出した。これにより司馬遹は自害を命じられたが、張華らがこれに頑なに反対したので、賈南風は妥協して司馬遹を庶人に落とす事に決め、金墉城に監禁した。

300年1月、司馬遹は金墉城から許昌宮に護送される事に決まった。恵帝は司馬遹の見送りを禁じたが、江統潘滔を始め多くの宮臣が伊水まで出向いて司馬遹を見送ったので、彼らは逮捕されて河南獄と洛陽獄に入れられた。都官従事孫琰は賈謐へ「宮臣が罪を恐れず太子に別れを告げましたが、それに重刑を用いてしまえば、天下に太子の徳を宣伝することにつながります。ここは寛大な処置をすべきかと」と諫めたので、賈謐はこれに従い、洛湯県令曹攄に釈放を命じた。河南獄に入れられた者達は河南尹楽広によって既に釈放されていたが、勝手に囚人を釈放した楽広も罪に問わなかった。

最期

3月、右衛督司馬雅・常従督許超は賈南風を廃して皇太子の復位を目論み、強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を仰ごうと思い、司馬倫の腹心孫秀へ協力を持ち掛けた。孫秀は表向きはこれに同意したが、裏では密かに司馬倫へ、賈南風廃立の謀略をわざと漏らして賈南風に司馬遹を殺害させ、その後仇をとるという大義名分で賈南風を廃して政権を掌握するよう勧め、司馬倫は同意した。 孫秀は司馬雅らが皇后を廃して太子を迎え入れようとしていると言う噂を流し、さらに司馬倫と孫秀は賈謐の下に出向いて「速く太子を除いて民衆の希望を絶つべきです」と進言すると、賈南風は黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。

4月3日、司馬倫と孫秀は右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜・斉王司馬冏と共に賈南風討伐を決行し、司馬倫は恵帝の詔と称して近衛軍を指揮する三部司馬へ「中宮(賈南風)と賈謐等は朕の太子を殺した。今、車騎将軍(司馬倫)が中宮を廃すので、汝らはその命に従うように。全て済めば関中侯を与えるが、逆らう者は三族を誅す。」と宣言し、傘下に入るよう命じた。更に偽の詔によって宮門を開かせ兵を配置すると、司馬冏に百人を率いて宮中に入らせた。華林令駱休が司馬倫に内応して恵帝を東堂に招くと、詔で賈謐を招集した。賈謐は異変に気付くと、西鐘下まで逃亡しながら「阿后(賈南風)、お助け下さい」と叫んだ。だが、兵士に囲まれ、間をおかずに賈謐は斬られた。賈南風は廃され、他の一族も連座して処刑された。

なお、『金谷二十四友』は司馬倫や孫秀の恨みを買っていた石崇・杜斌が殺された以外はその後の政治的混乱の影響によって処罰の対象にされず[2]、陸機らのように司馬倫側に就いた者もいた。

逸話

晩年、賈謐の家には数多くの妖異現象が起こったという。旋風が吹いて賈謐の朝服を数100丈も飛ばし、中丞台に落ちた。また、賈謐の朝服の中からは蛇が出てきた。夜には暴雷が賈充の屋敷を振るわし、柱は折れて地に落ち、床帳が柱の重みで壊れた。これにより、賈謐は不吉な事が起こるのではと大いに恐れたが、果たしてその通りとなった。

脚注

  1. ^ 石崇欧陽建潘岳陸機陸雲繆世徴杜斌摯虞諸葛銓王粋杜育鄒捷左思崔基劉瓌和郁周恢牽秀陳眕郭彰許猛劉訥劉輿劉琨
  2. ^ 賈謐の一族である郭彰は本来であればクーデターで殺害されていた可能性が高いが、『晋書』の列伝に殺害記事がないことや諡号が残されていることから賈謐の殺害時には既に病死していたとみられる(福原、2012年、P248)。

参考文献