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[[291年]]3月、楊駿が誅殺されると、衛瓘は復職して[[録尚書事]]に任じられ、緑綟綬を与えられ、剣履上殿・入朝不趨の特権を加えられ、騎司馬を下賜された。こうして、汝南王[[司馬亮]]と共に朝政を補佐する事となった。
[[291年]]3月、楊駿が誅殺されると、衛瓘は復職して[[録尚書事]]に任じられ、緑綟綬を与えられ、剣履上殿・入朝不趨の特権を加えられ、騎司馬を下賜された。こうして、汝南王[[司馬亮]]と共に朝政を補佐する事となった。


[[北軍中候]]である楚王[[司馬イ|司馬瑋]]は横暴で殺人を好んだので、衛瓘はこれを忌み嫌い、司馬亮と謀議して司馬瑋から兵権を奪うために[[臨海郡|臨海]]侯裴楷を司馬瑋に代わって北軍中候に任じた。だが、司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。衛瓘は司馬亮と再び謀議し、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買った。
[[北軍中候]]である楚王[[司馬瑋]]は横暴で殺人を好んだので、衛瓘はこれを忌み嫌い、司馬亮と謀議して司馬瑋から兵権を奪うために[[臨海郡|臨海]]侯裴楷を司馬瑋に代わって北軍中候に任じた。だが、司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。衛瓘は司馬亮と再び謀議し、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買った。


賈南風は皇太子廃立の一件から衛瓘を憎んでおり、また司馬亮と衛瓘が政権を掌握していたので賈氏の権限が抑え込まれている事に不満を抱いていた。司馬瑋配下の[[岐盛]]は元々楊駿の側近であったが、司馬瑋と結託して楊駿誅殺に加担したので、衛瓘はその節操のなさを嫌い、機会を見つけて逮捕しようと考えていた。岐盛はこれを大いに恐れ、同じく司馬瑋配下の[[公孫宏]]と謀り、司馬瑋からの伝言と偽って、賈南風配下の積弩将軍[[李肇]]へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げた。李肇はこれを賈南風に密告したので、賈南風は遂に司馬亮と衛瓘を除く事を決めた。
賈南風は皇太子廃立の一件から衛瓘を憎んでおり、また司馬亮と衛瓘が政権を掌握していたので賈氏の権限が抑え込まれている事に不満を抱いていた。司馬瑋配下の[[岐盛]]は元々楊駿の側近であったが、司馬瑋と結託して楊駿誅殺に加担したので、衛瓘はその節操のなさを嫌い、機会を見つけて逮捕しようと考えていた。岐盛はこれを大いに恐れ、同じく司馬瑋配下の[[公孫宏]]と謀り、司馬瑋からの伝言と偽って、賈南風配下の積弩将軍[[李肇]]へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げた。李肇はこれを賈南風に密告したので、賈南風は遂に司馬亮と衛瓘を除く事を決めた。

2020年7月31日 (金) 10:02時点における版

衛 瓘(えい かん、220年 - 291年)は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。は伯玉。司隷河東郡安邑県の出身。父は尚書衛覬。弟は衛寔。

経歴

若き日

10歳の時に父を亡くしており、母へ孝行を尽くす様は人並外れていた。節操は固く、物静かであった。また、明識にして清く公平であり、名声に実態が伴っていると称えられた。後に父の爵位である閿郷侯を継いだ。

240年尚書郎に任じられた。当時の魏は法が厳しく過酷であったので、母の陳氏は衛瓘の身を憂いた。そのために、衛瓘は自ら請うて通事郎に移り、さらに中書郎に移った。当時、曹爽を始めとした権臣が政権を掌握していたが、衛瓘は優遊として彼らと親しくしなかったので、傅嘏からは大いに重んじられ、甯兪(甯武子、春秋時代)に例えられた。10年もの間、中書郎の職務を務め上げ、その仕事ぶりを称えられた。その後、散騎常侍に昇進した。

260年曹奐が即位すると、衛瓘は侍中を拝名し、持節を与えられて河北の慰労に当たった。その功績により食邑を加増された。数年後には廷尉卿に移った。衛瓘は法理に明るく、訴訟の裁決を行う際は些細な案件も重大な事案も情をもって対応に当たった。

反乱平定

263年、征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会蜀漢征伐の兵を興すと、衛瓘は廷尉卿・持節をもって鄧艾・鍾会の軍事の監査を命じられた。また、行鎮西軍司に任じられて兵1000人を賜り、征伐軍に従軍した。

蜀漢が平定されると、鄧艾は独断専行が目立つようになった。この時、鍾会は密かに謀反を目論んでいたので、鄧艾を失脚させようと考え、鄧艾が朝廷の許可を得ずに専擅を行っていると衛瓘に訴えた。衛瓘もまた鄧艾の振る舞いが越権行為に当たると考えていたので、鍾会の訴えに同意して密かに現状を朝廷へ上奏した。正式に詔が下ると、檻車が派遣されて鄧艾は連行される事が決まった。だが、檻車が成都に到着するまでには時間を要したので、反乱を恐れて鄧艾には詔の内容は秘匿された。衛瓘の兵は鄧艾の兵より数が少なかったが、鍾会は鄧艾を事前に収監しておくよう衛瓘に命じた。この時、鍾会は鄧艾が衛瓘を殺すのを期待しており、これによってさらに鄧艾の罪を加えようとしていた。衛瓘は自らの身に危険が及んでいる事を理解していたが、命令である以上拒むことは出来なかった。

衛瓘は夜に成都に入ると、鄧艾が統率している諸将へ向けて、鄧艾を捕らえる詔が下った事を告げ、この事について何も反論しないよう布告した。また、もし従えば爵と賞は保証されるが、拒む者については三族誅滅となると伝えた。これにより、夜明けと共に諸将の尽くは衛瓘の下に帰順し、ただ鄧艾の帳内のみを残すのみとなった。朝を迎えて門が開くと、衛瓘は使者の車に乗って城内に入り、成都殿の前に至った。この時、鄧艾はまだ眠ったままであり、息子と共に捕縛された。鄧艾の配下は鄧艾を奪い返そうと考え、武具を整えて衛瓘の陣営に赴いたが、衛瓘は軽装で彼らを出迎えると、上表文を偽作して鄧艾が逮捕されるに至る経緯を申し述べて明らかにしたので、諸将はこれを信じて取りやめた。

264年、鍾会は成都に入ると、胡烈を始めとした諸将を捕らえて益州の官舍に囚え、遂に朝廷に反旗を翻した。士卒はこれに帰順し、成都内外は騒然となって人々は震え上がった。鍾会は衛瓘の事を味方だと信じていたので、成都に留めて共に今後の方針について謀議した。また、胡烈らを殺害するつもりである事を話したが、衛瓘はこれに反対したので両者の関係は悪化した。衛瓘は厠に行くと称し、密かにかつて胡烈の給使であった人物と会うと、城外の三軍へ向けて鍾会が謀反を起こしたと伝えさせた。

その後も鍾会は衛瓘へ幾度も計略に加担するよう強いたが、衛瓘は一切応じなかったので、誅殺されるのを大いに警戒し、宿に入っても眠らずに常に刀を膝の上に横たえたという。この時、成都城外の諸軍は既に鍾会を攻める準備を整えていたが、衛瓘が城から出られなかったので、彼らも動く事が出来なかった。鍾会は城外が騒然としている事を知ると、衛瓘を派遣して諸軍を慰労しようと考えた。衛瓘はすぐにでも鍾会の下を離れたいと考えていたが、あえて鍾会の意思を堅くするために「卿は三軍の主であるから、自ら行くべきであろう」と話すと、鍾会は「卿は監司であるから、先に行ってくれたまえ。我も後から出るであろう」と答えた。これを受け、衛瓘は徒歩で成都宮殿を離れた。だが、鍾会はすぐに衛瓘を行かせた後悔し、人を派遣して衛瓘を連れ戻させた。衛瓘はめまいが酷く病に罹ったと称し、地に倒れる演技をしてこれをやり過ごした。だが、閤を出た所で、今度は鍾会の側近数十人が追ってきた。衛瓘はすぐに官舎に入ると、すぐに食塩を加えた白湯を飲んで大いに吐いた。衛瓘はかねてより病弱であった事もあり、側近たちは本当に重病に罹ったと信じ込んだ。鍾会の側近である医者ももはや長くないと診断したので、鍾会は遂に衛瓘への警戒を解いた。こうして衛瓘は見逃され、無事に成都城から脱出した。

日が暮れて門が閉ざされると、衛瓘は檄文を作って諸軍へ鍾会討伐を命じた。諸軍は既に準備を整えていたので、翌日を迎えると共同で鍾会を攻めた。鍾会は側近を率いて抵抗したが、諸将はこれを撃ち破り、宮殿を守るのは帳下の数百人を残すのみとなった。その為、鍾会は彼らと共に逃亡を図ったが、諸将はこれを捕らえて尽く殺戮した。こうして乱が鎮圧されると、衛瓘は改めて諸将を配備し直して混乱を鎮めたので、魏軍はみな粛然としたという。

この頃、鄧艾は檻車により洛陽へ送還される途上であったが、乱が鎮圧されると彼の配下は鄧艾を助け出し、反転して成都へ向かった。衛瓘は鍾会と共に鄧艾を弾劾していた事から、鄧艾の恨みを買って誅殺される事を恐れており、また鍾会の乱を鎮めた功績までも台無しになるのを恐れた。以前、蜀漢平定戦の折に鄧艾が江油に進軍した時、護軍田続が進軍を躊躇ったので処刑しようとしたが、側近が諫めたので取りやめたという事件があった。衛瓘はこれを利用して田続へ「今こそ江油の辱めに報いる時だ」と告げ、田続を綿竹に派遣して鄧艾誅殺を命じた。田続は三造亭に於いて鄧艾を夜襲すると、鄧艾と子の鄧忠を斬った。

全ての混乱が一段落すると、朝廷は衛瓘の功績を称えて恩賞を下賜したが、衛瓘は蜀征伐についてはみなの功績であり、その後の混乱については二将(鄧艾・鍾会)が自ら滅亡へ進んだだけであり、その中で智謀を巡らせたといえども、自ら主導してこれを行ったわけではないとして、賞賜については固辞して受けなかった。

その後、衛瓘は使持節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任じられた。さらに昇進して都督徐州諸軍事・鎮東将軍に任じられ、菑陽侯に封じられた。さらに余爵として弟の衛寔が開陽亭侯に封じられた。衛瓘は徐州に着任すると、大いに治績を上げたという。

幽州を統治

265年、魏から禅譲を受けてが成立すると、衛瓘は司馬炎に大いに信任され、征東将軍に移って爵を菑陽公に進められた。

269年、都督青州諸軍事・青州刺史・征東大将軍・青州牧に任じられた。青州においてもその治世は大いに称えられた。

271年、征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に任じられた。治所に至ると、幽州を分割して平州を立てるよう上表した。274年、要求が認められて平州が設置されると、衛瓘は都督平州諸軍事も兼任する事となった。

当時、幽州の東には烏桓が、西には鮮卑拓跋部拓跋力微が割拠し、いずれも辺境を荒らしていた。衛瓘は烏桓と拓跋力微が対立するよう仕向け、烏桓を晋に帰順させる事に成功した。

275年6月、拓跋力微の子である拓跋沙漠汗が献上品を持って洛陽に入朝した。衛瓘は拓跋沙漠汗が並外れた才覚を有している事から後の煩いになると考え、拓跋沙漠汗を洛陽に留めておくよう上表し、認められた。また、拓跋部の勢力を削ぐため、諸大人に賄賂を送って離間工作を行った。277年、拓跋沙漠汗は帰国するも、各部の大人は衛瓘の離間工作もあり、拓跋沙漠汗を陥れんとして拓跋力微の前で讒言を行った。拓跋力微がこれを信じ込むと、諸大人は拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微は病気を患ったので烏桓王庫賢に軍を任せたが、庫賢もまた衛瓘の賄賂を受け取っていたので、彼は諸大人へ、拓跋沙漠汗を勝手に殺害した罪で全ての大人の長男を殺すよう命を受けたと告げると、諸大人はこれを信じて驚き離散してしまった。これにより、拓跋部の勢力は大いに弱体化した。

朝廷は功績を称えて子に亭侯を下賜したが、衛瓘は弟(衛寔とは別)を代わって封じるよう請うた。だが、その命を受ける前に弟が亡くなったので、弟の子である衛密が亭侯に封じられた。衛瓘には6人の男子がおり、いずれも爵位が無かったにも関わらず、その封爵を尽く2人の弟に優先的に讓ったので、みな彼を称えた。

その後、入朝を求められると洛陽に入って司馬炎と接見し、大いに厚遇を受けた。すぐにまた幽州へ帰還した。

司馬炎の寵臣

278年、再び洛陽に召喚されると、尚書令侍中に任じられた。衛瓘は法の下に厳粛に政務をこなし、尚書を見るときは参佐と同様に、尚書郎を見るときは掾属と同様に厳しく当たった。衛瓘は学問を深く広く理解し、文芸にも精通していた。尚書郎索靖と共に草書に巧みであると評判であり、当時の人は彼らを「一台二妙」と号した。後漢末には張芝という草書で著名な人物がいたが、論者は『衛瓘は伯英(張芝の字)の筋を得ており、索靖は伯英の肉を得ている』と称えた。

283年司空に昇進し、侍中・尚書令は以前通りであった。衛瓘の政治は清簡であったので、大いに天下の名声を得た。司馬炎は勅命を下し、衛瓘の四男衛宣繁昌公主(司馬炎の娘)を嫁がせた。衛瓘は自らが諸生に過ぎない事から、これを固辞しようとしたが、認められなかった。さらに、太子少傅を加えられ、千兵と百騎と鼓吹を加えられた。衛瓘は日蝕を理由に太尉司馬亮司徒魏舒と共に官位を降りようとしたが、認められなかった。

衛瓘は魏の時代に制定した九品官人(中正)法について否定的な意見を示している。この法はあくまで混乱期に政権を安定させるための暫定的な制度であり、これが続くと貴族の門閥化を促進するものであるから、これを廃止して郷里での選挙による人材確保を復活させるべきであると主張し、太尉司馬亮らと共に上疏した。司馬炎はこの意見に理解を示していたが、制度が改められる事はなかった。

267年に司馬炎の子である司馬衷は皇太子に立てられたが、彼は暗愚であったので政務を処理する能力がなかった。衛瓘はいつも皇太子を選定し直すべきだと考えていたが、それを直接口に出す事は憚られた。ある時、宴会が催されたが、衛瓘は酔った勢いで帝の御前に跪くと「臣は陛下に奏じるべき事があります」というと、司馬炎は「公の言わんとする所は何ぞや」と返した。衛瓘は話そうとして3度躊躇を繰り返したが、遂に手で帝の椅子を撫でながら「この座は惜しまれるべきでございます」と述べ、暗に司馬衷の廃嫡を勧めた。司馬炎はその意図を理解したが、惚けたふりをして「公は本当に大酔しておるな」と言うのみであり、衛瓘もこれ以上何も言わなかった。司馬衷の妃である賈南風はこれにより、衛瓘を怨むようになった。衛瓘はさらに和嶠と共に「皇太子は暗愚であり、皇太孫は聡明であるが軽薄な性質が案じられる。これでは治世を保つことは難しい」と吹聴し、皇太孫司馬遹を絶賛する風潮に釘を刺した。

当時、臨晋侯楊駿外戚として権勢を振るっており、彼はかねてより衛瓘の存在を疎ましく思っていた。290年1月、衛瓘の四男の衛宣は公主を娶ったが、彼は酒による過失が何度もあった。その為、楊駿は宦官と共謀して衛宣を弾劾し、繁昌公主と離婚させた。衛瓘はこれを大いに恐れ、老いを理由に朝廷を離れる事を請うた。司馬炎はこれを聞き入れ、衛瓘を太保(名誉職)に昇進させて公爵はそのままとした上で、邸宅に戻る事を認め、親兵百人・長史・司馬・従事中郎・掾属を置く事を許し、大車・官騎・麾蓋・鼓吹・諸威儀については旧典の通りとし、厨田10頃・園50畝・銭100万・絹500匹を下賜した。ある官吏が上奏し、衛宣を捕らえ、衛瓘の位を剥奪するよう進言したが、司馬炎は取り合わなかった。司馬炎は後に、宦官が衛宣の過失を過剰に申し立てていたことを知ると、繁昌公主と衛宣を復縁させようと考えたが、衛宣はこの一件で病んでしまい既に亡くなっていた。

賈南風との対立と最期

4月、司馬衷が即位すると、衛瓘は新たに千兵を与えられた。

291年3月、楊駿が誅殺されると、衛瓘は復職して録尚書事に任じられ、緑綟綬を与えられ、剣履上殿・入朝不趨の特権を加えられ、騎司馬を下賜された。こうして、汝南王司馬亮と共に朝政を補佐する事となった。

北軍中候である楚王司馬瑋は横暴で殺人を好んだので、衛瓘はこれを忌み嫌い、司馬亮と謀議して司馬瑋から兵権を奪うために臨海侯裴楷を司馬瑋に代わって北軍中候に任じた。だが、司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。衛瓘は司馬亮と再び謀議し、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買った。

賈南風は皇太子廃立の一件から衛瓘を憎んでおり、また司馬亮と衛瓘が政権を掌握していたので賈氏の権限が抑え込まれている事に不満を抱いていた。司馬瑋配下の岐盛は元々楊駿の側近であったが、司馬瑋と結託して楊駿誅殺に加担したので、衛瓘はその節操のなさを嫌い、機会を見つけて逮捕しようと考えていた。岐盛はこれを大いに恐れ、同じく司馬瑋配下の公孫宏と謀り、司馬瑋からの伝言と偽って、賈南風配下の積弩将軍李肇へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げた。李肇はこれを賈南風に密告したので、賈南風は遂に司馬亮と衛瓘を除く事を決めた。

6月、賈南風は恵帝に詔を作らせ、司馬瑋へ「太宰(司馬亮)と太保(衛瓘)は伊尹霍光を模倣して皇帝廃立を企んでいる。王(司馬瑋)は淮南王(司馬允)・長沙王(司馬乂)・成都王(司馬穎)に命じて諸々の宮門を制圧させ、司馬亮と衛瓘の官を免じるように。」と告げた。司馬瑋は自ら統括している北軍を動かし、司馬亮と衛瓘の討伐を掲げて決起すると、公孫宏と李肇に司馬亮府を包囲させ、侍中・清河王司馬遐には衛瓘の逮捕を命じた。

衛瓘邸が司馬遐に包囲されると、衛瓘の側近は司馬遐が詔を偽造したのではないかと疑い、上書して詔の真偽を確認するべきだと進言したが、衛瓘は従わずに逮捕を受け入れた。かつて衛瓘が司空となった時、帳下督栄晦は罪を侵して罰せられ、司空府から追放された事があった。その栄晦はこの時司馬遐軍に従っており、私怨を晴らすために司馬遐の制止を無視して衛瓘と子の衛恒・衛嶽・衛裔と孫ら9人を殺害した。司馬亮もまた捕らえられて誅殺された。ただ衛恒の二子である衛璪・衛玠は、当時医者の家にいたので災禍を免れた。太保主簿劉繇らは危険を承知で衛瓘の死体を収容し、これを手厚く葬ったという。

賈南風は司馬瑋に威権が集まる事を恐れ、独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言して誅殺した。その後、衛瓘の娘は朝廷に上書して衛瓘の名誉回復を訴えると、劉繇らもまたこれに同調して衛瓘の冤罪と栄晦の処罰を上言した。これらの要求は認められ、衛瓘は蘭陵郡公に追封され、食邑を三千戸加増され、と諡され、仮黄鉞を贈られた。また、栄晦は一族もろとも誅殺された。

逸話

  • 衛瓘が鄧艾を殺した時、鎮西長史杜預は鄧艾を尊敬していたので、人々に向かって「伯玉(衛瓘の字)は死を免れないであろう。身は名士に列し、高い地位と人望を具えながら、よい評判を立てられることがないうえに、正義によって部下を統御することもしない。これは小人(器量の小さい人間のこと)のくせに君子の皮を被っているためだ。一体どうやってその責務を果たそうというのか」と言った。衛瓘はこの発言を伝え聞くと、車の支度も待たずに駆けつけて陳謝したという。晋書では衛瓘が後に誅殺されたのは、杜預の発言の通りであったと記載されている。

子孫

男子は衛密・衛恒・衛宣・衛嶽・衛裔・その他一人がいる。女子も少なくとも一人いる事が分かっている。孫は衛璪・衛玠・その他数名がいる。玄孫は衛崇。一説に書家衛鑠は、衛恒の族弟である衛展(字は道舒)の娘だという。

参考文献

関連項目