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[[馮翊郡|馮翊]][[太守]]の辛顕崇<ref>『周書』辛慶之伝では父の名を「顕崇」とし、『北史』辛慶之伝では「顕宗」とする。</ref>の子として生まれた。慶之は若くして文学の才能で推挙され、[[洛陽]]に召し出されて試問を受けた。その答案が第一等の成績であったため、秘書郎に任じられた。 |
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[[535年]]([[大統]]元年)、[[車騎将軍]]の号を加えられた。まもなく衛大将軍・左光禄大夫に転じた。[[537年]](大統3年)、[[宇文泰]]の東征に従い、行台左丞となった。西魏が[[河東郡 (中国)|河東郡]]を奪うと、慶之は本官のまま[[解池|塩池]]都将を兼ねた。[[538年]](大統4年)、[[東魏]]の軍が正平郡を攻撃して陥落させると、そのまま塩池を経略しようとした。慶之はあらかじめ防戦の準備をしており、東魏軍を撃退した。[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]で西魏軍が敗れ、西魏に属する[[黄河]]以北の太守や県令たちは城を棄てて逃走したが、慶之はひとり塩池に拠って、東魏に対峙することができた。[[540年]](大統6年)、行河東郡事をつとめた。[[543年]](大統9年)、入朝して丞相府右長史となり、給事黄門侍郎を兼ね、度支尚書に任じられた。再び行河東郡事をつとめた。通直散騎常侍・[[南荊州]][[刺史]]に転出し、[[儀同三司]]の位を加えられた。 |
2020年7月31日 (金) 09:56時点における版
辛 慶之(しん けいし、生没年不詳)は、北魏・西魏の軍人。字は慶之、あるいは余慶[1]。本貫は隴西郡狄道県。
経歴
馮翊太守の辛顕崇[2]の子として生まれた。慶之は若くして文学の才能で推挙され、洛陽に召し出されて試問を受けた。その答案が第一等の成績であったため、秘書郎に任じられた。
530年(永安3年)、爾朱栄が殺害されて爾朱兆らが反乱を起こすと、孝荘帝は司空の楊津を北道行台として、山東の諸軍を統率させ、爾朱氏を討たせた。楊津は慶之を行台左丞とし、参謀の議論をつかさどらせた。楊津や慶之らが鄴に入ると、孝荘帝が爾朱兆に殺害されたことを知らされた。そこで楊津や慶之らは兗州と冀州のあいだに進出して、義徒を集めて、爾朱氏を討とうと図った。爾朱仲遠がすでに東郡を制圧していたため、慶之らの企図は失敗に終わった。531年(普泰元年)、節閔帝が擁立されると、慶之は洛陽に帰った。532年(普泰2年)、平北将軍・太中大夫の位を受けた。賀拔岳が関中大行台となると、慶之は召し出されてその下で行台吏部郎中・開府掾をつとめた。ほどなく雍州別駕に任じられた。
535年(大統元年)、車騎将軍の号を加えられた。まもなく衛大将軍・左光禄大夫に転じた。537年(大統3年)、宇文泰の東征に従い、行台左丞となった。西魏が河東郡を奪うと、慶之は本官のまま塩池都将を兼ねた。538年(大統4年)、東魏の軍が正平郡を攻撃して陥落させると、そのまま塩池を経略しようとした。慶之はあらかじめ防戦の準備をしており、東魏軍を撃退した。河橋の戦いで西魏軍が敗れ、西魏に属する黄河以北の太守や県令たちは城を棄てて逃走したが、慶之はひとり塩池に拠って、東魏に対峙することができた。540年(大統6年)、行河東郡事をつとめた。543年(大統9年)、入朝して丞相府右長史となり、給事黄門侍郎を兼ね、度支尚書に任じられた。再び行河東郡事をつとめた。通直散騎常侍・南荊州刺史に転出し、儀同三司の位を加えられた。
慶之は儒学の経典に明るく、盧誕らとともに諸王にその学問を教授した。553年(廃帝2年)、秘書監に任じられた。ほどなく在官のまま死去した。
子に辛加陵があり、主寝上士となった。
脚注
伝記資料
- 『周書』巻39 列伝第31
- 『北史』巻70 列伝第58