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時期は不明だが沛王に封じられ、[[大興区|薊]]を鎮守した。
時期は不明だが沛王に封じられ、[[大興区|薊]]を鎮守した。


[[349年]]4月、石虎が崩御すると、[[皇太子]][[石世]](石沖の異母弟)が後を継いだが、翌月には彭城王[[石遵]](石沖の異母弟)は挙兵して[[ギョウ|鄴]]へ入城すると、石世を廃して帝位を簒奪した。
[[349年]]4月、石虎が崩御すると、[[皇太子]][[石世]](石沖の異母弟)が後を継いだが、翌月には彭城王[[石遵]](石沖の異母弟)は挙兵して[[鄴]]へ入城すると、石世を廃して帝位を簒奪した。


同月、石沖は石遵の帝位簒奪を聞いて憤り、その側近へ「世(石世)は先帝の命を受けていたのに、遵(石遵)はたやすく廃立してこれを殺した。その罪が大きくない訳があろうか!内外に勅を下して戒厳令を布き、我自らこれを討たん!」と宣言した。そして、寧北将軍[[沐堅]]を薊に留まらせて幽州の守備を任せると、5万の兵を率いて薊から南下した。さらに、燕・趙の地へ檄文を飛ばすと各地から兵が集い、その軍が[[常山郡|常山]]を通過する頃には兵数は10万を越えた。石沖が苑郷に屯営していた、石遵からの使者が到来し、今回の件は不問とするので国に帰還するよう告げた。これに石沖は「みな我の弟である。死者は追う事が出来ぬというのに、どうしてまた殺し合っているのか!我は帰るべきだな」と述べてこれに応じようとしたが、将軍[[陳暹]]は「彭城(石遵)は陛下を弑して帝位を簒奪しており、その罪は大なるものです!王が北へ帰られるとしても、臣一人でも南へ行きます。京師を平定して彭城を捕らえ、然る後に大駕を奉迎いたします(大駕とは天子の乗り物。石沖を皇帝として迎え入れる事を意味する)」と述べたので、石沖は進撃を決断した。石遵はさらに[[王擢]]にも石沖を説得に行かせたが、石沖は聞き入れなかった。その為、石遵は輔国大将軍[[石閔]]と[[司空]][[李農]]に黄鉞・金鉦を貸し与えると、精鋭10万を与えて迎撃を命じた。石沖は[[平棘県|平棘]]においてて石閔らと交戦となったが、大敗を喫した。さらに追撃を受け、[[元氏県|元氏]]において捕縛されてしまった。石沖は石遵より自殺を命じられ、その配下の兵3万も生き埋めとなった。
同月、石沖は石遵の帝位簒奪を聞いて憤り、その側近へ「世(石世)は先帝の命を受けていたのに、遵(石遵)はたやすく廃立してこれを殺した。その罪が大きくない訳があろうか!内外に勅を下して戒厳令を布き、我自らこれを討たん!」と宣言した。そして、寧北将軍[[沐堅]]を薊に留まらせて幽州の守備を任せると、5万の兵を率いて薊から南下した。さらに、燕・趙の地へ檄文を飛ばすと各地から兵が集い、その軍が[[常山郡|常山]]を通過する頃には兵数は10万を越えた。石沖が苑郷に屯営していた、石遵からの使者が到来し、今回の件は不問とするので国に帰還するよう告げた。これに石沖は「みな我の弟である。死者は追う事が出来ぬというのに、どうしてまた殺し合っているのか!我は帰るべきだな」と述べてこれに応じようとしたが、将軍[[陳暹]]は「彭城(石遵)は陛下を弑して帝位を簒奪しており、その罪は大なるものです!王が北へ帰られるとしても、臣一人でも南へ行きます。京師を平定して彭城を捕らえ、然る後に大駕を奉迎いたします(大駕とは天子の乗り物。石沖を皇帝として迎え入れる事を意味する)」と述べたので、石沖は進撃を決断した。石遵はさらに[[王擢]]にも石沖を説得に行かせたが、石沖は聞き入れなかった。その為、石遵は輔国大将軍[[石閔]]と[[司空]][[李農]]に黄鉞・金鉦を貸し与えると、精鋭10万を与えて迎撃を命じた。石沖は[[平棘県|平棘]]においてて石閔らと交戦となったが、大敗を喫した。さらに追撃を受け、[[元氏県|元氏]]において捕縛されてしまった。石沖は石遵より自殺を命じられ、その配下の兵3万も生き埋めとなった。

2020年7月31日 (金) 09:54時点における最新版

石 沖(せき ちゅう、? - 349年)は、五胡十六国時代後趙の皇族。父は石虎

生涯

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石虎の子として生まれたが、父の時代の事績は伝わっていない。

時期は不明だが沛王に封じられ、を鎮守した。

349年4月、石虎が崩御すると、皇太子石世(石沖の異母弟)が後を継いだが、翌月には彭城王石遵(石沖の異母弟)は挙兵してへ入城すると、石世を廃して帝位を簒奪した。

同月、石沖は石遵の帝位簒奪を聞いて憤り、その側近へ「世(石世)は先帝の命を受けていたのに、遵(石遵)はたやすく廃立してこれを殺した。その罪が大きくない訳があろうか!内外に勅を下して戒厳令を布き、我自らこれを討たん!」と宣言した。そして、寧北将軍沐堅を薊に留まらせて幽州の守備を任せると、5万の兵を率いて薊から南下した。さらに、燕・趙の地へ檄文を飛ばすと各地から兵が集い、その軍が常山を通過する頃には兵数は10万を越えた。石沖が苑郷に屯営していた、石遵からの使者が到来し、今回の件は不問とするので国に帰還するよう告げた。これに石沖は「みな我の弟である。死者は追う事が出来ぬというのに、どうしてまた殺し合っているのか!我は帰るべきだな」と述べてこれに応じようとしたが、将軍陳暹は「彭城(石遵)は陛下を弑して帝位を簒奪しており、その罪は大なるものです!王が北へ帰られるとしても、臣一人でも南へ行きます。京師を平定して彭城を捕らえ、然る後に大駕を奉迎いたします(大駕とは天子の乗り物。石沖を皇帝として迎え入れる事を意味する)」と述べたので、石沖は進撃を決断した。石遵はさらに王擢にも石沖を説得に行かせたが、石沖は聞き入れなかった。その為、石遵は輔国大将軍石閔司空李農に黄鉞・金鉦を貸し与えると、精鋭10万を与えて迎撃を命じた。石沖は平棘においてて石閔らと交戦となったが、大敗を喫した。さらに追撃を受け、元氏において捕縛されてしまった。石沖は石遵より自殺を命じられ、その配下の兵3万も生き埋めとなった。

参考文献

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