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[[534年]]([[天平 (東魏)|天平]]元年)、大使となり、広洛二州の慰撫につとめた。[[536年]](天平3年)、征東将軍の号を受け、行[[陽平郡]]事をつとめた。郡民の路黒奴に反乱を起こされ、郡治を攻め落とされて、その捕虜となった。右衛将軍の郭瓊が路黒奴の乱を鎮圧すると、珍之は解放された。
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子に辛懿があり、武定末年に開府鎧曹参軍となった。
子に辛懿があり、武定末年に開府鎧曹参軍となった。

2020年7月31日 (金) 09:50時点における最新版

辛 珍之(しん ちんし、生没年不詳)は、北魏末から東魏にかけての官僚本貫隴西郡狄道県

経歴

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はじめは太尉鎧曹行参軍となり、次いで中堅将軍・司徒録事参軍・広州大中正に転じたが、喪に服すため官を辞職した。ほどなく汝北郡太守として再起した。永安年間、司空諮議参軍・通直散騎常侍となった。永熙年間、襄城郡太守として出向した。

534年天平元年)、大使となり、広洛二州の慰撫につとめた。536年(天平3年)、征東将軍の号を受け、行陽平郡事をつとめた。郡民の路黒奴に反乱を起こされ、郡治を攻め落とされて、その捕虜となった。右衛将軍の郭瓊が路黒奴の乱を鎮圧すると、珍之は解放された。

興和年間、衛将軍・司徒司馬となった。545年武定3年)、驃騎将軍北海郡太守に転じた。に召還されて、儀同開府長史・兼光禄少卿となった。ほどなく使持節・広洛北荊揚雍襄六州慰労大使・北荊鎮城・行広州事として出向した。行平州を命じられて、在官のまま死去した。驃騎大将軍・洛州刺史の位を追贈された。は恭といった。

子に辛懿があり、武定末年に開府鎧曹参軍となった。

伝記資料

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