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北斉の[[天保 (北斉)|天保]]初年、[[済北郡]]太守に任じられた。刑罰を緩め、穏健寛容な統治で民衆に慕われた。任期を終えて[[ギョウ|鄴]]に呼び戻されるにあたっては、郡民が泣いて道を遮った。伯謙は弟の崔仲譲が[[関中]]で[[西魏]]に仕えていることを理由に、中央での任官を断り、南鉅鹿郡太守の外任を受けた。後に銀青光禄大夫となり、死去した。南兗州[[刺史]]の位を追贈され、[[諡]]は懿といった。
北斉の[[天保 (北斉)|天保]]初年、[[済北郡]]太守に任じられた。刑罰を緩め、穏健寛容な統治で民衆に慕われた。任期を終えて[[鄴]]に呼び戻されるにあたっては、郡民が泣いて道を遮った。伯謙は弟の崔仲譲が[[関中]]で[[西魏]]に仕えていることを理由に、中央での任官を断り、南鉅鹿郡太守の外任を受けた。後に銀青光禄大夫となり、死去した。南兗州[[刺史]]の位を追贈され、[[諡]]は懿といった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年7月31日 (金) 09:49時点における最新版

崔 伯謙(さい はくけん、生没年不詳)は、中国東魏北斉官僚は伯謙。本貫博陵郡安平県

経歴[編集]

南鉅鹿郡太守の崔文業(崔鑑の兄の崔檦の子)の子として生まれた。若くして父を失い、貧困の中で母を養った。高歓に召し出されて晋陽に赴き、相府功曹に任じられ、「清直奉公にして、真の良佐なり」と評された。瀛州別駕に転じた。高澄に才能を認められて、京畿司馬とされたが、族弟の崔暹が高澄に重用されていたことから、伯謙はかれと同僚になるのは良くないと理由をつけて、招聘に応じなかった。

北斉の天保初年、済北郡太守に任じられた。刑罰を緩め、穏健寛容な統治で民衆に慕われた。任期を終えてに呼び戻されるにあたっては、郡民が泣いて道を遮った。伯謙は弟の崔仲譲が関中西魏に仕えていることを理由に、中央での任官を断り、南鉅鹿郡太守の外任を受けた。後に銀青光禄大夫となり、死去した。南兗州刺史の位を追贈され、は懿といった。

伝記資料[編集]