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[[裴宣 (北魏)|裴宣]]の次男として生まれた。若くして広く学問し、弟たちを教育した。利欲に乏しく、郡が功曹として召し出そうとしたときも応じず、諸府が呼び出そうとしたときも、まず弟たちを仕官させたため、そのふるまいは賞賛を受けた。高陽王[[元雍]]により秀才に挙げられ、射策に及第し、[[太学]]博士に任じられた。[[隷書]]と[[草書]]を得意とし、音律を解し、五言詩を作って、その才能は当時に名高かった。中山王[[元熙 (北魏)|元熙]]が[[鄴]]に赴くにあたって、当時の賢者たちが河梁で送別の会を開き、別離の賦詩を詠んだが、敬憲の作ったものが最も優秀と評価された。[[525年]]([[孝昌]]元年)、病のため死去した。享年は33。郷里ではかれの人柄が惜しまれ、孝昌年間に陳双熾の反乱軍が荒らし回ったときにも、かれの家だけは焼かれることがなかった。[[530年]]([[永安 (北魏)|永安]]3年)、中書侍郎の位を追贈された。[[諡]]は文といった。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年7月31日 (金) 09:47時点における最新版
裴 敬憲(はい けいけん、493年 - 525年)は、北魏の学者・文人。字は孝虞。本貫は河東郡聞喜県。
経歴
[編集]裴宣の次男として生まれた。若くして広く学問し、弟たちを教育した。利欲に乏しく、郡が功曹として召し出そうとしたときも応じず、諸府が呼び出そうとしたときも、まず弟たちを仕官させたため、そのふるまいは賞賛を受けた。高陽王元雍により秀才に挙げられ、射策に及第し、太学博士に任じられた。隷書と草書を得意とし、音律を解し、五言詩を作って、その才能は当時に名高かった。中山王元熙が鄴に赴くにあたって、当時の賢者たちが河梁で送別の会を開き、別離の賦詩を詠んだが、敬憲の作ったものが最も優秀と評価された。525年(孝昌元年)、病のため死去した。享年は33。郷里ではかれの人柄が惜しまれ、孝昌年間に陳双熾の反乱軍が荒らし回ったときにも、かれの家だけは焼かれることがなかった。530年(永安3年)、中書侍郎の位を追贈された。諡は文といった。