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[[492年]](太和16年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、休は[[大司馬]]を兼ねた。[[493年]](太和17年)、[[洛陽]]遷都が完了すると、休は孝文帝の行幸に従って[[鄴]]に赴いた。孝文帝の命を受けて文武の官を率いて家族を[[大同市|平城]]に迎えに行った。 |
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2020年7月31日 (金) 09:43時点における版
拓跋 休(たくばつ きゅう、生年不詳 - 494年)は、中国の北魏の皇族。安定靖王。
経歴
拓跋晃と孟椒房のあいだの子として生まれた。468年(皇興2年)、安定王に封じられた。征南大将軍・外都大官に任じられた。
孝文帝の初年、庫莫奚が北魏の辺境に侵入してくると、休は使持節・侍中・都督諸軍事・征東大将軍・領護東夷校尉・儀同三司・和龍鎮将に任じられて、防戦を指揮した。入朝して中都大官となった。柔然の侵攻を受けると、使持節・征北大将軍・撫冥鎮大将として出向し、柔然を撃退した。入朝して内都大官となった。491年(太和15年)、太傅に転じた。
492年(太和16年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、休は大司馬を兼ねた。493年(太和17年)、洛陽遷都が完了すると、休は孝文帝の行幸に従って鄴に赴いた。孝文帝の命を受けて文武の官を率いて家族を平城に迎えに行った。