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== 経歴 ==
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[[高帰義]]の子として生まれた。9歳のとき、叔父の[[高帰彦]]とともに[[河州 (甘粛省)|河州]]から[[洛陽]]に入った。高歓は高普を諸子と一緒に遊ばせた。[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]末年、安南将軍・太子左衛率となった。北斉の[[天保 (北斉)|天保]]元年([[550年]])6月、武興郡王に封じられた。[[河清]]3年([[564年]])3月、尚書左僕射となった。[[天統 (北斉)|天統]]2年([[566年]])5月、[[尚書令]]に進んだ。[[武平 (北斉)|武平]]2年([[571年]])、[[司空]]に上った。武平4年([[573年]])4月、[[司徒]]に転じた。武平6年([[575年]])、[[豫州]]道行台・尚書令となった。[[後主 (北斉)|後主]]が[[ギョウ|鄴]]に撤退すると、高普は[[太宰]]の位を加えられた。周軍が迫ると、高普は[[北周]]に降った。[[長安]]で死去した。上開府・豫州[[刺史]]の位を追贈された。
[[高帰義]]の子として生まれた。9歳のとき、叔父の[[高帰彦]]とともに[[河州 (甘粛省)|河州]]から[[洛陽]]に入った。高歓は高普を諸子と一緒に遊ばせた。[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]末年、安南将軍・太子左衛率となった。北斉の[[天保 (北斉)|天保]]元年([[550年]])6月、武興郡王に封じられた。[[河清]]3年([[564年]])3月、尚書左僕射となった。[[天統 (北斉)|天統]]2年([[566年]])5月、[[尚書令]]に進んだ。[[武平 (北斉)|武平]]2年([[571年]])、[[司空]]に上った。武平4年([[573年]])4月、[[司徒]]に転じた。武平6年([[575年]])、[[豫州]]道行台・尚書令となった。[[後主 (北斉)|後主]]が[[鄴]]に撤退すると、高普は[[太宰]]の位を加えられた。周軍が迫ると、高普は[[北周]]に降った。[[長安]]で死去した。上開府・豫州[[刺史]]の位を追贈された。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年7月31日 (金) 09:42時点における版

高 普(こう ふ、生没年不詳)は、北斉皇族は徳広。高歓の従甥にあたる。

経歴

高帰義の子として生まれた。9歳のとき、叔父の高帰彦とともに河州から洛陽に入った。高歓は高普を諸子と一緒に遊ばせた。東魏武定末年、安南将軍・太子左衛率となった。北斉の天保元年(550年)6月、武興郡王に封じられた。河清3年(564年)3月、尚書左僕射となった。天統2年(566年)5月、尚書令に進んだ。武平2年(571年)、司空に上った。武平4年(573年)4月、司徒に転じた。武平6年(575年)、豫州道行台・尚書令となった。後主に撤退すると、高普は太宰の位を加えられた。周軍が迫ると、高普は北周に降った。長安で死去した。上開府・豫州刺史の位を追贈された。

伝記資料