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梁の南平王[[蕭偉]]の子として生まれた。定襄侯に封じられ、[[東揚州]][[刺史]]に任じられた。後に[[北エン州|北兗州]]刺史に転じた。[[太清]]3年([[549年]])、[[侯景]]が[[建康 (都城)|建康]]を陥落させると、蕭祗は[[東魏]]に亡命した。[[鄴]]に到着すると、[[高澄]]は[[魏収]]と[[ケイ卲|邢卲]]に命じて応接させた。蕭祗は太子少傅となり、平陽王の師を兼ね、清河郡公に封じられた。[[北斉]]の[[天保 (北斉)|天保]]初年、右光禄大夫の位を受け、国子祭酒となった。梁の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が北斉との通好を求めたため、[[文宣帝]]は蕭祗らを南に帰そうとした。しかし[[西魏]]が[[荊州区|江陵]]を陥落させたため、蕭祗らはそのまま鄴都にとどめられて、死去した。中書監・車騎大将軍・[[揚州 (古代)|揚州]]刺史の位を追贈された。 |
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子に[[蕭放]]があった。 |
子に[[蕭放]]があった。 |
2020年7月31日 (金) 09:42時点における版
蕭 祗(しょう し、生没年不詳)は、南朝梁の皇族。字は敬式。
経歴
梁の南平王蕭偉の子として生まれた。定襄侯に封じられ、東揚州刺史に任じられた。後に北兗州刺史に転じた。太清3年(549年)、侯景が建康を陥落させると、蕭祗は東魏に亡命した。鄴に到着すると、高澄は魏収と邢卲に命じて応接させた。蕭祗は太子少傅となり、平陽王の師を兼ね、清河郡公に封じられた。北斉の天保初年、右光禄大夫の位を受け、国子祭酒となった。梁の元帝が北斉との通好を求めたため、文宣帝は蕭祗らを南に帰そうとした。しかし西魏が江陵を陥落させたため、蕭祗らはそのまま鄴都にとどめられて、死去した。中書監・車騎大将軍・揚州刺史の位を追贈された。
子に蕭放があった。