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[[557年]]、北周が建国されると、楊敷の爵位は侯に進んだ。小載師下大夫となり、使者として北豫州に向かい、[[司馬消難]]を迎えて帰還した。使持節・蒙州諸軍事・蒙州刺史に任ぜられた。少数民族の統治に意を用い、州境を安定させた。車騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。[[保定 (北周)|保定]]年間、司水中大夫となった。荊州総管の[[長孫倹]]が楊敷の刺史留任を求めたが、時に東征の議論があり、楊敷に船舶による輸送を担当させることとなったため、留任は許可されなかった。陳公[[宇文純]]が陝州に駐屯すると、楊敷はその下で総管長史となった。[[565年]]、司木中大夫・軍器副監に転じた。驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進んだ。 |
[[557年]]、北周が建国されると、楊敷の爵位は侯に進んだ。小載師下大夫となり、使者として北豫州に向かい、[[司馬消難]]を迎えて帰還した。使持節・蒙州諸軍事・蒙州刺史に任ぜられた。少数民族の統治に意を用い、州境を安定させた。車騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。[[保定 (北周)|保定]]年間、司水中大夫となった。荊州総管の[[長孫倹]]が楊敷の刺史留任を求めたが、時に東征の議論があり、楊敷に船舶による輸送を担当させることとなったため、留任は許可されなかった。陳公[[宇文純]]が陝州に駐屯すると、楊敷はその下で総管長史となった。[[565年]]、司木中大夫・軍器副監に転じた。驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進んだ。 |
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[[571年]]、楊敷は汾州諸軍事・汾州刺史として出向し、爵位は公に進んだ。[[北斉]]の[[段韶]]が5万の兵を率いて侵攻してくると、汾州の城は梯衝が掛けられ、地下道が掘られ、昼夜を分かたず攻撃を受けた。楊敷が自ら矢や石をもって防御にあたり、攻防は10日を越え、北斉軍の攻撃はますます激しくなった。時に汾州の城中の兵は2000に満たず、戦死者は10人のうち4、5におよび、備蓄の食糧も尽きた。斉公[[宇文憲]]が救援の任にあたったが、段韶をおそれて進軍しなかった。楊敷は陥落必至とみて、夜間の包囲突破を試みた。楊敷は抗戦したが、北斉軍に包囲され、矢が尽きて捕らえられた。北斉はかれを任用したいと考えたが、楊敷は屈服せず、憂憤のまま[[ |
[[571年]]、楊敷は汾州諸軍事・汾州刺史として出向し、爵位は公に進んだ。[[北斉]]の[[段韶]]が5万の兵を率いて侵攻してくると、汾州の城は梯衝が掛けられ、地下道が掘られ、昼夜を分かたず攻撃を受けた。楊敷が自ら矢や石をもって防御にあたり、攻防は10日を越え、北斉軍の攻撃はますます激しくなった。時に汾州の城中の兵は2000に満たず、戦死者は10人のうち4、5におよび、備蓄の食糧も尽きた。斉公[[宇文憲]]が救援の任にあたったが、段韶をおそれて進軍しなかった。楊敷は陥落必至とみて、夜間の包囲突破を試みた。楊敷は抗戦したが、北斉軍に包囲され、矢が尽きて捕らえられた。北斉はかれを任用したいと考えたが、楊敷は屈服せず、憂憤のまま[[鄴]]で憤死した。[[武帝 (北周)|武帝]]により北斉が平定されると、楊敷は使持節・[[大将軍]]・淮魯復三州諸軍事・三州刺史の位を追贈された。[[諡]]は忠壮といった。 |
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== 妻子 == |
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2020年7月31日 (金) 09:40時点における版
楊 敷[1](よう ふ、生年不詳 - 571年)は、中国の北魏から北周にかけての政治家・軍人。字は文衍。本貫は恒農郡華陰県(現在の陝西省渭南市華陰市)。
経歴
楊暄の子として生まれた[2]。528年、祖父の楊鈞の爵位を嗣いで臨貞県伯となった。員外羽林監に任ぜられた。535年、西魏が建国されると、奉車都尉に任ぜられた。尚書左士郎中・祠部郎中・大丞相府墨曹参軍・帥都督・平東将軍・太中大夫を歴任し、撫軍将軍・通直散騎常侍の位を加えられた。555年、廷尉少卿に転じた。
557年、北周が建国されると、楊敷の爵位は侯に進んだ。小載師下大夫となり、使者として北豫州に向かい、司馬消難を迎えて帰還した。使持節・蒙州諸軍事・蒙州刺史に任ぜられた。少数民族の統治に意を用い、州境を安定させた。車騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。保定年間、司水中大夫となった。荊州総管の長孫倹が楊敷の刺史留任を求めたが、時に東征の議論があり、楊敷に船舶による輸送を担当させることとなったため、留任は許可されなかった。陳公宇文純が陝州に駐屯すると、楊敷はその下で総管長史となった。565年、司木中大夫・軍器副監に転じた。驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進んだ。
571年、楊敷は汾州諸軍事・汾州刺史として出向し、爵位は公に進んだ。北斉の段韶が5万の兵を率いて侵攻してくると、汾州の城は梯衝が掛けられ、地下道が掘られ、昼夜を分かたず攻撃を受けた。楊敷が自ら矢や石をもって防御にあたり、攻防は10日を越え、北斉軍の攻撃はますます激しくなった。時に汾州の城中の兵は2000に満たず、戦死者は10人のうち4、5におよび、備蓄の食糧も尽きた。斉公宇文憲が救援の任にあたったが、段韶をおそれて進軍しなかった。楊敷は陥落必至とみて、夜間の包囲突破を試みた。楊敷は抗戦したが、北斉軍に包囲され、矢が尽きて捕らえられた。北斉はかれを任用したいと考えたが、楊敷は屈服せず、憂憤のまま鄴で憤死した。武帝により北斉が平定されると、楊敷は使持節・大将軍・淮魯復三州諸軍事・三州刺史の位を追贈された。諡は忠壮といった。