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[[東魏]]の[[元象]]年間、平陽郡公に封ぜられた。尚書左僕射に累進した。[[550年]]、北斉が建てられると、高淹の爵位は平陽郡王に進んだ。[[尚書令]]・開府儀同三司・[[司空]]・[[太尉]]を歴任した。[[560年]]、[[太傅]]となり、彭城王[[高ユウ|高浟]]・河間王[[高孝エン|高孝琬]]とともに仗身・羽林百人を給された。[[561年]]、[[太宰]]に転じた。[[564年]]、[[晋陽]]で死去した。一説に毒殺されたともいう。遺体は[[鄴]]に葬られ、仮黄鉞・太宰・[[録尚書事]]の位を追贈された。 |
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子の高徳素が後を嗣いだ。 |
2020年7月31日 (金) 09:39時点における版
高 淹(こう えん、? - 564年)は、中国の北斉の皇族。平陽靖翼王。高歓の四男。母は穆氏。字は子邃。
経歴
東魏の元象年間、平陽郡公に封ぜられた。尚書左僕射に累進した。550年、北斉が建てられると、高淹の爵位は平陽郡王に進んだ。尚書令・開府儀同三司・司空・太尉を歴任した。560年、太傅となり、彭城王高浟・河間王高孝琬とともに仗身・羽林百人を給された。561年、太宰に転じた。564年、晋陽で死去した。一説に毒殺されたともいう。遺体は鄴に葬られ、仮黄鉞・太宰・録尚書事の位を追贈された。
子の高徳素が後を嗣いだ。
高淹の妻の馮娑羅(ふうばら、532年 - 553年7月15日)は、北燕の馮氏の後裔で、平陽王妃となり、諡を昭といった。