「高勱」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
3行目: | 3行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
北斉の清河王[[高岳 (北斉)|高岳]]の子として生まれた。幼いころから聡明で、姿かたちが美しく、[[文宣帝]]に愛された。7歳のとき、清河王の爵位を嗣いだ。14歳で[[青州 (山東省)|青州]]刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。[[斛律光]]に召されて、征戦に従い、かれを補佐した。[[侍中]]・尚書右僕射に転じた。[[後主 (北斉)|後主]]が晋州で[[北周]]の軍に敗れると、高勱は胡太后を奉じて[[ |
北斉の清河王[[高岳 (北斉)|高岳]]の子として生まれた。幼いころから聡明で、姿かたちが美しく、[[文宣帝]]に愛された。7歳のとき、清河王の爵位を嗣いだ。14歳で[[青州 (山東省)|青州]]刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。[[斛律光]]に召されて、征戦に従い、かれを補佐した。[[侍中]]・尚書右僕射に転じた。[[後主 (北斉)|後主]]が晋州で[[北周]]の軍に敗れると、高勱は胡太后を奉じて[[鄴]]に帰った。勝手なふるまいをしていた宦官の苟子溢を斬ろうとしたが、太后に阻止されてできなかった。後主に鄴に留まって戦うよう勧めたが、後主は聞き入れず、東方に逃走した。高勱は殿軍をつとめ、北周軍に捕らえられた。[[武帝 (北周)|武帝]]が高勱に会って語り合うと、大いに喜び、北斉が滅びた理由を訊ねた。高勱は涙を流して語ったので、武帝は態度を改めた。開府儀同三司の位を受けた。 |
||
[[580年]]、[[楊堅]]が北周の[[丞相]]となると、高勱は器量を買われて検校揚州事をつとめた。後に楚州刺史に任ぜられた。楚州の城北に[[伍子胥]]の廟がまつられていたが、高勱は伍子胥信仰を民衆の産業を破壊するものとして、禁止した。 |
[[580年]]、[[楊堅]]が北周の[[丞相]]となると、高勱は器量を買われて検校揚州事をつとめた。後に楚州刺史に任ぜられた。楚州の城北に[[伍子胥]]の廟がまつられていたが、高勱は伍子胥信仰を民衆の産業を破壊するものとして、禁止した。 |
2020年7月31日 (金) 09:38時点における版
高 勱(こう ばい、生没年不詳)は、中国の北斉の皇族。字は敬徳。本貫は渤海郡蓨県。隋の四州刺史を歴任した。
経歴
北斉の清河王高岳の子として生まれた。幼いころから聡明で、姿かたちが美しく、文宣帝に愛された。7歳のとき、清河王の爵位を嗣いだ。14歳で青州刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。斛律光に召されて、征戦に従い、かれを補佐した。侍中・尚書右僕射に転じた。後主が晋州で北周の軍に敗れると、高勱は胡太后を奉じて鄴に帰った。勝手なふるまいをしていた宦官の苟子溢を斬ろうとしたが、太后に阻止されてできなかった。後主に鄴に留まって戦うよう勧めたが、後主は聞き入れず、東方に逃走した。高勱は殿軍をつとめ、北周軍に捕らえられた。武帝が高勱に会って語り合うと、大いに喜び、北斉が滅びた理由を訊ねた。高勱は涙を流して語ったので、武帝は態度を改めた。開府儀同三司の位を受けた。
580年、楊堅が北周の丞相となると、高勱は器量を買われて検校揚州事をつとめた。後に楚州刺史に任ぜられた。楚州の城北に伍子胥の廟がまつられていたが、高勱は伍子胥信仰を民衆の産業を破壊するものとして、禁止した。
587年、光州刺史に転じ、陳を取るための五策を上書した。隋軍が大挙して陳を討つと、高勱は行軍総管となり、王世積の下で陳の江州を落とした。功により上開府の位を受けた。
隴右の羌族たちが隋に反抗すると、高勱は洮州刺史に任じられて対応にあたった。後に吐谷渾の侵攻を受けると、高勱は病のため出戦できなかった。多くの戸口が失われたことを弾劾され、また羌族から賄賂を受けたと告発されて、免官された。後に家で死去した。享年は56。唐代になって都督四州諸軍事・定州刺史の位を追贈された。
子の高士廉は、初唐の名臣として知られた。