コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「応劭」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ギョウ」→「鄴」が記事名を含まれる記事の改名に伴うリンク修正依頼 (鄴) - log
16行目: 16行目:
また父が司隷校尉時代に、各役所に先人の肖像などを提出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』と命名した。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』や、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』[[顔師古]]注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇あった。
また父が司隷校尉時代に、各役所に先人の肖像などを提出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』と命名した。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』や、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』[[顔師古]]注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇あった。


その後、[[ギョウ|鄴]]で死去した。弟の子である応瑒・応璩も文才で知られた。応瑒は所謂「建安七子」の一人に数えられている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[王粲]]伝注引『典論』)。
その後、[[鄴]]で死去した。弟の子である応瑒・応璩も文才で知られた。応瑒は所謂「建安七子」の一人に数えられている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[王粲]]伝注引『典論』)。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年7月31日 (金) 09:37時点における版

応 劭(おう しょう、? - 204年8月以前)は、中国後漢末期の政治家。仲瑗豫州汝南郡南頓県(現在の河南省周口市項城市)の人。『風俗通』・『漢官儀』といった著作や『漢書』の注釈を著した。父は応奉。弟は応珣。甥は応瑒建安七子の一人)・応璩。

略歴

代々、太守などを務めた家に生まれた。父は武陵太守・司隷校尉となった。

応劭は若い頃から勉強熱心で、博覧強記の人であった。霊帝の時代に孝廉へ推挙され、何苗に招かれて掾(属官)となった。

中平2年(185年)に、韓遂らが族と共に反乱を起こした際、討伐に遣わされた皇甫嵩烏桓の兵3000を要請したのに対し、鄒靖は「烏桓は弱いので、鮮卑より兵を募るべきだ」と進言した。そのことについて議論した際、応劭は「鮮卑は漢に心服しておらず制御できないので、反乱しなかった羌族から兵を募る方が良いのでは」と主張したため、その意見が採用された。

その後、兗州泰山太守となった。初平2年(191年)、黄巾賊30万が郡の境界に侵入してきたが、応劭は郡の文官・武官を率いて賊と戦い、全部で首級数千・捕虜一万余り、輜重二千輌の戦果を挙げた。このことで賊が退却し郡内は危機を免れた。

興平元年(194年)、曹操の父曹嵩が避難していた徐州琅邪から泰山へ入った際、応劭は兵を遣わし彼を迎えようとしたが、それまでの戦いで曹操を恨んでいた陶謙が、騎兵を送って曹嵩を攻撃させたため、応劭の兵が合流する前に郡の境界で曹嵩を死なせてしまった。応劭は曹操に殺されるのを怖れ郡を捨て、袁紹の元へ逃げた。

応劭は建安元年(196年)に『漢官儀』を完成させて献帝に献上した。翌年献帝の命で、応劭は袁紹の軍謀校尉となった。当時まだに遷都したばかりで、制度や故事が多く失われていたことから、応劭は『漢官礼儀故事』を著した。許における朝廷の制度などは、多くが応劭によって立て直された。

また父が司隷校尉時代に、各役所に先人の肖像などを提出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』と命名した。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』や、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』顔師古注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇あった。

その後、で死去した。弟の子である応瑒・応璩も文才で知られた。応瑒は所謂「建安七子」の一人に数えられている(『三国志王粲伝注引『典論』)。

参考文献