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「独孤永業」の版間の差分

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[[559年]]、河陽行台右丞として出向し、洛州刺史に転じ、また刺史のまま行台左丞に進んで、散騎常侍の位を加えられた。永業の駐屯した河陽は[[北周]]との国境近くにあった。北周が黒澗に築城して河陽への糧道を断とうと図ると、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。永業は国境地帯で威信があり、行台尚書となった。[[564年]]、北周が洛州に侵攻すると、永業は刺史の段思文が守りきれないことを恐れて、金墉城に入って守備を助けた。北周側が地下道を掘って攻撃し、攻防は朝夕に30日にわたって続いた。北斉の援軍がやってくると、北周軍は撤退した。
[[559年]]、河陽行台右丞として出向し、洛州刺史に転じ、また刺史のまま行台左丞に進んで、散騎常侍の位を加えられた。永業の駐屯した河陽は[[北周]]との国境近くにあった。北周が黒澗に築城して河陽への糧道を断とうと図ると、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。永業は国境地帯で威信があり、行台尚書となった。[[564年]]、北周が洛州に侵攻すると、永業は刺史の段思文が守りきれないことを恐れて、金墉城に入って守備を助けた。北周側が地下道を掘って攻撃し、攻防は朝夕に30日にわたって続いた。北斉の援軍がやってくると、北周軍は撤退した。


永業は長らく[[河南]]にあって、招撫につとめ、北斉に帰順する者は万を数えた。そのうち200人を選んで爪牙とし、戦闘があるごとに先鋒とし、少数で多数の敵に当たらせたので、北周の人もこれをはばかった。永業は儀同三司の位を加えられ、与えられる賞賜も厚いものがあった。性格は剛直で、権勢ある人物と交際しようとしなかった。[[斛律光]]がふたりの婢を永業に求めたことがあったが得られず、このため朝廷で永業をそしった。[[565年]]、[[ギョウ|鄴]]に召されて太僕卿となり、乞伏貴和が永業に代わって赴任すると、西の国境地帯は弱体化し、河洛の治安も悪化した。
永業は長らく[[河南]]にあって、招撫につとめ、北斉に帰順する者は万を数えた。そのうち200人を選んで爪牙とし、戦闘があるごとに先鋒とし、少数で多数の敵に当たらせたので、北周の人もこれをはばかった。永業は儀同三司の位を加えられ、与えられる賞賜も厚いものがあった。性格は剛直で、権勢ある人物と交際しようとしなかった。[[斛律光]]がふたりの婢を永業に求めたことがあったが得られず、このため朝廷で永業をそしった。[[565年]]、[[鄴]]に召されて太僕卿となり、乞伏貴和が永業に代わって赴任すると、西の国境地帯は弱体化し、河洛の治安も悪化した。


[[572年]]、[[斛律羨]]を捕らえるために[[幽州]]に派遣され、北道行台僕射・幽州刺史となった。まもなく領軍将軍として召された。河洛の民衆の多くは、永業の統治をなつかしみ、北斉の朝廷でも西辺防備に不安が出たので、永業を河陽道行台僕射・洛州刺史に任じた。[[575年]]、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]が自ら金墉を攻撃すると、永業は出兵してこれを防御した。永業が夜を徹して馬槽2000を整備したので、北周側はこのことを聞いて、北斉の大軍がやってくるものと思い、包囲を解いて去った。永業は開府儀同三司に進み、臨川王に封ぜられた。[[576年]]、晋州での敗北の報を聞き、出兵を願い出たが、返事がかえってこなかったため、永業は憤慨した。[[并州]]が落とされ、自身も北周の常山公于翼に肉薄されたので、子の独孤須達を使者として北周に投降した。北周の武帝は永業に上柱国の位を与えた。[[578年]]、襄州総管として出向した。[[580年]]、行軍総管の崔彦睦のために殺された。
[[572年]]、[[斛律羨]]を捕らえるために[[幽州]]に派遣され、北道行台僕射・幽州刺史となった。まもなく領軍将軍として召された。河洛の民衆の多くは、永業の統治をなつかしみ、北斉の朝廷でも西辺防備に不安が出たので、永業を河陽道行台僕射・洛州刺史に任じた。[[575年]]、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]が自ら金墉を攻撃すると、永業は出兵してこれを防御した。永業が夜を徹して馬槽2000を整備したので、北周側はこのことを聞いて、北斉の大軍がやってくるものと思い、包囲を解いて去った。永業は開府儀同三司に進み、臨川王に封ぜられた。[[576年]]、晋州での敗北の報を聞き、出兵を願い出たが、返事がかえってこなかったため、永業は憤慨した。[[并州]]が落とされ、自身も北周の常山公于翼に肉薄されたので、子の独孤須達を使者として北周に投降した。北周の武帝は永業に上柱国の位を与えた。[[578年]]、襄州総管として出向した。[[580年]]、行軍総管の崔彦睦のために殺された。

2020年7月31日 (金) 09:36時点における版

独孤 永業(どっこ えいぎょう、? - 580年)は、中国北斉軍人は世基。本姓は劉。本貫中山郡

経歴

幼くして父を失い、母が独孤氏に再嫁したので、永業は母とともに独孤家に養育され、その姓を名乗った。都督六州諸軍事として抜擢され、晋陽に宿衛した。高澄と語り合って喜ばれ、中外府外兵参軍に任ぜられた。550年、北斉が建国されると、中書舎人・豫州司馬に任ぜられた。永業は事務仕事を理解し、歌舞を得意とし、文宣帝に重んじられた。

559年、河陽行台右丞として出向し、洛州刺史に転じ、また刺史のまま行台左丞に進んで、散騎常侍の位を加えられた。永業の駐屯した河陽は北周との国境近くにあった。北周が黒澗に築城して河陽への糧道を断とうと図ると、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。永業は国境地帯で威信があり、行台尚書となった。564年、北周が洛州に侵攻すると、永業は刺史の段思文が守りきれないことを恐れて、金墉城に入って守備を助けた。北周側が地下道を掘って攻撃し、攻防は朝夕に30日にわたって続いた。北斉の援軍がやってくると、北周軍は撤退した。

永業は長らく河南にあって、招撫につとめ、北斉に帰順する者は万を数えた。そのうち200人を選んで爪牙とし、戦闘があるごとに先鋒とし、少数で多数の敵に当たらせたので、北周の人もこれをはばかった。永業は儀同三司の位を加えられ、与えられる賞賜も厚いものがあった。性格は剛直で、権勢ある人物と交際しようとしなかった。斛律光がふたりの婢を永業に求めたことがあったが得られず、このため朝廷で永業をそしった。565年に召されて太僕卿となり、乞伏貴和が永業に代わって赴任すると、西の国境地帯は弱体化し、河洛の治安も悪化した。

572年斛律羨を捕らえるために幽州に派遣され、北道行台僕射・幽州刺史となった。まもなく領軍将軍として召された。河洛の民衆の多くは、永業の統治をなつかしみ、北斉の朝廷でも西辺防備に不安が出たので、永業を河陽道行台僕射・洛州刺史に任じた。575年、北周の武帝が自ら金墉を攻撃すると、永業は出兵してこれを防御した。永業が夜を徹して馬槽2000を整備したので、北周側はこのことを聞いて、北斉の大軍がやってくるものと思い、包囲を解いて去った。永業は開府儀同三司に進み、臨川王に封ぜられた。576年、晋州での敗北の報を聞き、出兵を願い出たが、返事がかえってこなかったため、永業は憤慨した。并州が落とされ、自身も北周の常山公于翼に肉薄されたので、子の独孤須達を使者として北周に投降した。北周の武帝は永業に上柱国の位を与えた。578年、襄州総管として出向した。580年、行軍総管の崔彦睦のために殺された。

伝記資料

  • 北斉書』巻四十一 列伝第三十三
  • 北史』巻五十三 列伝第四十一