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[[550年]]、北斉が建国されると、征西将軍を加えられ、興勢県開国伯の別封を受け、定襄県令となり、高氏の姓を賜った。[[552年]]、[[奚|庫莫奚]]を代川に討ち、本官のまま左右大都督を領した。[[553年]]、[[契丹]]を黄龍で討ち、北平郡太守を領した。後に[[柔然]]に対する征討に従って、武衛大将軍に転じ、左右大将軍を領し、七兵尚書を兼ねた。
[[550年]]、北斉が建国されると、征西将軍を加えられ、興勢県開国伯の別封を受け、定襄県令となり、高氏の姓を賜った。[[552年]]、[[奚|庫莫奚]]を代川に討ち、本官のまま左右大都督を領した。[[553年]]、[[契丹]]を黄龍で討ち、北平郡太守を領した。後に[[柔然]]に対する征討に従って、武衛大将軍に転じ、左右大将軍を領し、七兵尚書を兼ねた。


[[突厥]]が強盛となると、景安は諸軍とともに北辺を守備した。軍人の不正な蓄財が横行したため、[[文宣帝]]がこれを調べさせたところ、景安のみが侵奪をおこなっていなかったので、文宣帝はかれを褒めて清廉ぶりを顕彰した。都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡を食邑とした。[[559年]]、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。[[560年]]、[[侍中]]を兼ね、[[ギョウ|鄴]]におもむいて百官をねぎらい、市井を巡察した。[[孝昭帝]]が群臣とともに西園で宴会し、200人あまりで弓射を競ったとき、景安は130歩の距離から的の獣の鼻に射当てて、孝昭帝に賞賛され、良馬・金玉の賞品を受けた。
[[突厥]]が強盛となると、景安は諸軍とともに北辺を守備した。軍人の不正な蓄財が横行したため、[[文宣帝]]がこれを調べさせたところ、景安のみが侵奪をおこなっていなかったので、文宣帝はかれを褒めて清廉ぶりを顕彰した。都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡を食邑とした。[[559年]]、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。[[560年]]、[[侍中]]を兼ね、[[鄴]]におもむいて百官をねぎらい、市井を巡察した。[[孝昭帝]]が群臣とともに西園で宴会し、200人あまりで弓射を競ったとき、景安は130歩の距離から的の獣の鼻に射当てて、孝昭帝に賞賛され、良馬・金玉の賞品を受けた。


[[561年]]、[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[562年]]、右衛将軍となり、まもなく右衛大将軍に転じた。[[565年]]、并省尚書右僕射をつとめ、まもなく[[徐州]]刺史として出向した。[[568年]]、[[豫州]]道行台僕射・豫州刺史となった。[[572年]]、豫州刺史のまま、行台尚書令に進み、歴陽郡王に封ぜられた。景安は豫州の治安を安定させ、管内の少数民族数万戸にも租税を納めさせるようにした。[[575年]]、鄴に召されて領軍大将軍となった。[[北周]]に入って、[[大将軍]]・大義郡開国公として[[稽胡]]を討ち、戦没した。
[[561年]]、[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[562年]]、右衛将軍となり、まもなく右衛大将軍に転じた。[[565年]]、并省尚書右僕射をつとめ、まもなく[[徐州]]刺史として出向した。[[568年]]、[[豫州]]道行台僕射・豫州刺史となった。[[572年]]、豫州刺史のまま、行台尚書令に進み、歴陽郡王に封ぜられた。景安は豫州の治安を安定させ、管内の少数民族数万戸にも租税を納めさせるようにした。[[575年]]、鄴に召されて領軍大将軍となった。[[北周]]に入って、[[大将軍]]・大義郡開国公として[[稽胡]]を討ち、戦没した。

2020年7月31日 (金) 09:36時点における版

元 景安(げん けいあん、生没年不詳)は、中国東魏皇族。東魏・北斉に仕えた軍人。北魏昭成帝の五世孫にあたる。

経歴

代郡公元永の子として生まれた。爾朱栄の下で大将軍府長流参軍となり、寧遠将軍の位を加えられ、大丞相府長流参軍に転じた。532年高歓洛陽を平定すると、領軍婁昭の推薦で京畿都都督に任ぜられ、父の爵位である代郡公を受け、前将軍・太中大夫を加えられた。534年孝武帝に従って関中に入った。

天平末年、東魏が西魏を討つと、景安は東魏に帰順し、都督に任ぜられた。興和年間、親信都督となった。543年邙山の戦いに参加して、奮戦して功績を挙げ、代郡公のまま西華県都郷男の爵位を受けた。南朝の使者が来ると、斛律光皮景和らとともに騎射を披露した。高澄が高歓の後を嗣ぐと、景安は封土を減らして将士に賜るよう上奏し、石保県開国子に降封され、安西将軍を加えられた。通州刺史となり、鎮西将軍を加えられ、子爵から伯爵に転じた。

550年、北斉が建国されると、征西将軍を加えられ、興勢県開国伯の別封を受け、定襄県令となり、高氏の姓を賜った。552年庫莫奚を代川に討ち、本官のまま左右大都督を領した。553年契丹を黄龍で討ち、北平郡太守を領した。後に柔然に対する征討に従って、武衛大将軍に転じ、左右大将軍を領し、七兵尚書を兼ねた。

突厥が強盛となると、景安は諸軍とともに北辺を守備した。軍人の不正な蓄財が横行したため、文宣帝がこれを調べさせたところ、景安のみが侵奪をおこなっていなかったので、文宣帝はかれを褒めて清廉ぶりを顕彰した。都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡を食邑とした。559年、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。560年侍中を兼ね、におもむいて百官をねぎらい、市井を巡察した。孝昭帝が群臣とともに西園で宴会し、200人あまりで弓射を競ったとき、景安は130歩の距離から的の獣の鼻に射当てて、孝昭帝に賞賛され、良馬・金玉の賞品を受けた。

561年開府儀同三司の位を加えられた。562年、右衛将軍となり、まもなく右衛大将軍に転じた。565年、并省尚書右僕射をつとめ、まもなく徐州刺史として出向した。568年豫州道行台僕射・豫州刺史となった。572年、豫州刺史のまま、行台尚書令に進み、歴陽郡王に封ぜられた。景安は豫州の治安を安定させ、管内の少数民族数万戸にも租税を納めさせるようにした。575年、鄴に召されて領軍大将軍となった。北周に入って、大将軍・大義郡開国公として稽胡を討ち、戦没した。

子の元仁は、武平末年に儀同三司・武衛となり、に入って驃騎将軍となり、丹陽郡太守として死去した。

伝記資料