コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「鮮于世栄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ギョウ」→「鄴」が記事名を含まれる記事の改名に伴うリンク修正依頼 (鄴) - log
4行目: 4行目:
懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。[[540年]]、[[高歓]]の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。北斉が建国されると、[[文宣帝]]の下で[[柔然]]や[[稽胡]]を討った。[[555年]]、[[高岳 (北斉)|高岳]]の下で[[郢州]]を平定し、持節・[[河州]][[刺史]]に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。[[560年]]、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。[[566年]]、開府儀同三司の位を加えられ、[[鄭州]]刺史に転じた。[[武平 (北斉)|武平]]年間、[[陳州|信州]]の乱を平定して、領軍将軍となり、食邑を[[上党郡]]に移された。[[高思好]]の乱の平定に従い、義陽王に封じられた。
懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。[[540年]]、[[高歓]]の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。北斉が建国されると、[[文宣帝]]の下で[[柔然]]や[[稽胡]]を討った。[[555年]]、[[高岳 (北斉)|高岳]]の下で[[郢州]]を平定し、持節・[[河州]][[刺史]]に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。[[560年]]、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。[[566年]]、開府儀同三司の位を加えられ、[[鄭州]]刺史に転じた。[[武平 (北斉)|武平]]年間、[[陳州|信州]]の乱を平定して、領軍将軍となり、食邑を[[上党郡]]に移された。[[高思好]]の乱の平定に従い、義陽王に封じられた。


[[576年]]、[[後主 (北斉)|後主]]が[[太原市|晋陽]]に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。[[577年]]、[[北周]]の軍が[[ギョウ|鄴]]に侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]により殺された。
[[576年]]、[[後主 (北斉)|後主]]が[[太原市|晋陽]]に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。[[577年]]、[[北周]]の軍が[[鄴]]に侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]により殺された。


子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。
子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。

2020年7月31日 (金) 09:36時点における版

鮮于 世栄(せんう せいえい、生年不詳 - 577年)は、中国東魏北斉軍人本貫漁陽郡

経歴

懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。540年高歓の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。北斉が建国されると、文宣帝の下で柔然稽胡を討った。555年高岳の下で郢州を平定し、持節・河州刺史に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。560年、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。566年、開府儀同三司の位を加えられ、鄭州刺史に転じた。武平年間、信州の乱を平定して、領軍将軍となり、食邑を上党郡に移された。高思好の乱の平定に従い、義陽王に封じられた。

576年後主晋陽に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。577年北周の軍がに侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の武帝により殺された。

子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。

伝記資料