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懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。[[540年]]、[[高歓]]の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。北斉が建国されると、[[文宣帝]]の下で[[柔然]]や[[稽胡]]を討った。[[555年]]、[[高岳 (北斉)|高岳]]の下で[[郢州]]を平定し、持節・[[河州]][[刺史]]に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。[[560年]]、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。[[566年]]、開府儀同三司の位を加えられ、[[鄭州]]刺史に転じた。[[武平 (北斉)|武平]]年間、[[陳州|信州]]の乱を平定して、領軍将軍となり、食邑を[[上党郡]]に移された。[[高思好]]の乱の平定に従い、義陽王に封じられた。 |
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[[576年]]、[[後主 (北斉)|後主]]が[[太原市|晋陽]]に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。[[577年]]、[[北周]]の軍が[[鄴]]に侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の[[武帝 (北周)|武帝]]により殺された。 |
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子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。 |
子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。 |
2020年7月31日 (金) 09:36時点における版
鮮于 世栄(せんう せいえい、生年不詳 - 577年)は、中国の東魏・北斉の軍人。本貫は漁陽郡。
経歴
懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。540年、高歓の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。北斉が建国されると、文宣帝の下で柔然や稽胡を討った。555年、高岳の下で郢州を平定し、持節・河州刺史に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。560年、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。566年、開府儀同三司の位を加えられ、鄭州刺史に転じた。武平年間、信州の乱を平定して、領軍将軍となり、食邑を上党郡に移された。高思好の乱の平定に従い、義陽王に封じられた。
576年、後主が晋陽に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。577年、北周の軍が鄴に侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の武帝により殺された。
子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった。