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「厙狄迴洛」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
はじめ[[爾朱栄]]に仕えて統軍となった。[[528年]]、[[孝荘帝]]の擁立に協力し、別将となり、毋極伯の爵位を受けた。[[葛栄]]を討ち、[[都督]]に転じた。[[530年]]、爾朱栄が殺害されると、[[爾朱兆]]に属した。[[531年]]、[[高歓]]が信都で起兵すると、迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。[[532年]]、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、[[後将軍]]・太中大夫を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。[[稽胡|山胡]]を討って、先鋒をつとめ、[[朔州]][[刺史]]に任じられた。[[538年]]、[[宇文泰]]を河陽で破り、[[夏州]]刺史に転じた。[[543年]]、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]では、奮戦して功績を挙げた。[[高澄]]の下で、潁川を平定した。[[550年]]、[[建州]]刺史に任じられた。北斉が建国されると、順陽郡王に封じられた。[[561年]]、[[朔州]]刺史に転出し、[[博陵郡]]を食邑とした。[[562年]]、[[太尉|太尉公]]・太子太師となった。2月、[[ギョウ|鄴]]で死去した。享年は57。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・[[定州]]刺史の位を追贈された。
はじめ[[爾朱栄]]に仕えて統軍となった。[[528年]]、[[孝荘帝]]の擁立に協力し、別将となり、毋極伯の爵位を受けた。[[葛栄]]を討ち、[[都督]]に転じた。[[530年]]、爾朱栄が殺害されると、[[爾朱兆]]に属した。[[531年]]、[[高歓]]が信都で起兵すると、迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。[[532年]]、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、[[後将軍]]・太中大夫を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。[[稽胡|山胡]]を討って、先鋒をつとめ、[[朔州]][[刺史]]に任じられた。[[538年]]、[[宇文泰]]を河陽で破り、[[夏州]]刺史に転じた。[[543年]]、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]では、奮戦して功績を挙げた。[[高澄]]の下で、潁川を平定した。[[550年]]、[[建州]]刺史に任じられた。北斉が建国されると、順陽郡王に封じられた。[[561年]]、[[朔州]]刺史に転出し、[[博陵郡]]を食邑とした。[[562年]]、[[太尉|太尉公]]・太子太師となった。2月、[[鄴]]で死去した。享年は57。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・[[定州]]刺史の位を追贈された。


== 厙狄迴洛墓の発見 ==
== 厙狄迴洛墓の発見 ==

2020年7月31日 (金) 09:35時点における版

厙狄 迴洛(しゃてき かいらく、506年 - 562年)は、中国東魏北斉軍人本貫代郡

経歴

はじめ爾朱栄に仕えて統軍となった。528年孝荘帝の擁立に協力し、別将となり、毋極伯の爵位を受けた。葛栄を討ち、都督に転じた。530年、爾朱栄が殺害されると、爾朱兆に属した。531年高歓が信都で起兵すると、迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。532年、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、後将軍・太中大夫を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。山胡を討って、先鋒をつとめ、朔州刺史に任じられた。538年宇文泰を河陽で破り、夏州刺史に転じた。543年邙山の戦いでは、奮戦して功績を挙げた。高澄の下で、潁川を平定した。550年建州刺史に任じられた。北斉が建国されると、順陽郡王に封じられた。561年朔州刺史に転出し、博陵郡を食邑とした。562年太尉公・太子太師となった。2月、で死去した。享年は57。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・定州刺史の位を追贈された。

厙狄迴洛墓の発見

1973年山西省寿陽県にて彼の陵墓が発掘され、貴重な文物・壁画などが発見されている。

妻子

  • 斛律昭男(513年 - 545年、斛律可知陵の娘)
  • 尉嬢嬢(尉天生の娘)

  • 厙狄光先
  • 厙狄天智

伝記資料

  • 北斉書』巻19 列伝第11
  • 北史』巻53 列伝第41
  • 斉故定州刺史太尉公厙狄順陽王墓誌銘(厙狄迴洛墓誌)
  • 斉故厙狄氏武始郡君斛律夫人墓誌銘(厙狄迴洛妻斛律昭男墓誌)
  • 斉故郡君尉氏墓誌銘(厙狄迴洛妾尉嬢嬢墓誌)