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[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、任祥は持節南道大都督となって荊蛮を討った。東魏が建国されると、[[侍中]]に任じられた。[[536年]]、范陽の盧仲延が河北の流人を率いて陽夏で叛くと、西兗州の民の田龍が人々を集めて乱に呼応したので、任祥は大都督・東道軍司として、都督の元整・叱列陀らを率いてこれを討った。まもなく行台僕射となり、驃騎大将軍・[[徐州]][[刺史]]に任じられた。[[梁 (南朝)|梁]]が[[元慶和]]と諸将を派遣して国境を侵すと、任祥は梁の[[仁州]]刺史の黄道始を北済陰で破り、また梁儁を単父で破って、捕虜1万人を斬った。再び侍中となった。 |
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[[537年]]、[[潁州]]長史の賀若徽が潁州刺史の田迅を捕らえて[[西魏]]に降ると、任祥は[[豫州]]刺史の[[堯雄]]らを率いてこれを討った。西魏が[[怡峯]]を派遣して来援すると、任祥らは敗れ、[[北豫州]]に撤退した。行台の[[侯景]]や[[司徒]]の[[高昂]]らと合流して、ともに潁川を攻め、これを落とした。[[538年]]8月3日、[[鄴]]で死去した。享年は45。使持節・[[太保]]・[[太尉|太尉公]]・[[録尚書事]]・都督冀定瀛幽安五州諸軍事・[[冀州]]刺史の位を追贈された。 |
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子の[[任冑]]が後を嗣いだが、西魏に通じて乱をはかり、[[545年]]に子弟とともに処刑された。 |
2020年7月31日 (金) 09:35時点における版
任 祥(じん しょう、494年 - 538年)は、東魏の政治家・軍人。字は延慶。本貫は広寧郡。
経歴
任檦と太原王氏の間の子として生まれた。伯父の任桃が雲中軍将となると、任祥も任桃に従って雲中に住んだ。六鎮の乱が起こると、葛栄に従った。葛栄が敗れると、北魏に降り、鎮遠将軍・広寧郡太守に任じられ、西河県公の爵位を受けた。
531年、高歓の起兵に従い、光禄大夫に累進した。532年、尚書左僕射に転じ、位は開府儀同三司に進んだ。
534年、孝武帝が関中に入ると、任祥は持節南道大都督となって荊蛮を討った。東魏が建国されると、侍中に任じられた。536年、范陽の盧仲延が河北の流人を率いて陽夏で叛くと、西兗州の民の田龍が人々を集めて乱に呼応したので、任祥は大都督・東道軍司として、都督の元整・叱列陀らを率いてこれを討った。まもなく行台僕射となり、驃騎大将軍・徐州刺史に任じられた。梁が元慶和と諸将を派遣して国境を侵すと、任祥は梁の仁州刺史の黄道始を北済陰で破り、また梁儁を単父で破って、捕虜1万人を斬った。再び侍中となった。
537年、潁州長史の賀若徽が潁州刺史の田迅を捕らえて西魏に降ると、任祥は豫州刺史の堯雄らを率いてこれを討った。西魏が怡峯を派遣して来援すると、任祥らは敗れ、北豫州に撤退した。行台の侯景や司徒の高昂らと合流して、ともに潁川を攻め、これを落とした。538年8月3日、鄴で死去した。享年は45。使持節・太保・太尉公・録尚書事・都督冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史の位を追贈された。
子の任冑が後を嗣いだが、西魏に通じて乱をはかり、545年に子弟とともに処刑された。