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[[六鎮の乱]]が起こると、若くして従軍した。[[韓楼]]が[[幽州]]で乱を起こすと、王懐は成功しないと見切って、ひそかに官軍と交渉した。[[531年]]、韓楼に叛いて[[北魏]]に帰順し、征虜将軍・第一領民酋長の位を受け、武周県侯に封じられた。 |
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[[高歓]]が起兵すると、王懐は3000家あまりの部衆とともに高歓に帰順した。高歓が[[爾朱兆]]を広阿で討つと、王懐は安北将軍・蔚州刺史となった。高歓の下で[[鄴]]を攻撃し、爾朱氏を韓陵に討って、爵位は侯に進んだ。高歓が[[洛陽]]に入ると、王懐は車騎将軍に任じられ、盧郷県侯に改封された。 |
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[[534年]]、東魏が建国されると、使持節・広州諸軍事となった。[[535年]]、[[梁 (南朝)|梁]]の湛僧珍・楊暕らが侵攻してくると、王懐は行台の元晏とともに項城を攻撃して落とし、楊暕を捕らえた。また高歓の下で西夏州を落とした。帰還すると、大都督となり、下館に駐屯して、儀同三司の位を受けた。[[538年]]、[[西魏]]に対する攻撃に従ったが、建州で病没した。定幽恒肆四州諸軍事・[[司徒|司徒公]]・尚書僕射の位を追贈された。 |
[[534年]]、東魏が建国されると、使持節・広州諸軍事となった。[[535年]]、[[梁 (南朝)|梁]]の湛僧珍・楊暕らが侵攻してくると、王懐は行台の元晏とともに項城を攻撃して落とし、楊暕を捕らえた。また高歓の下で西夏州を落とした。帰還すると、大都督となり、下館に駐屯して、儀同三司の位を受けた。[[538年]]、[[西魏]]に対する攻撃に従ったが、建州で病没した。定幽恒肆四州諸軍事・[[司徒|司徒公]]・尚書僕射の位を追贈された。 |
2020年7月31日 (金) 09:35時点における版
王 懐(おう かい、生年不詳 - 538年)は、中国の東魏の軍人。字は懐周。
経歴
六鎮の乱が起こると、若くして従軍した。韓楼が幽州で乱を起こすと、王懐は成功しないと見切って、ひそかに官軍と交渉した。531年、韓楼に叛いて北魏に帰順し、征虜将軍・第一領民酋長の位を受け、武周県侯に封じられた。
高歓が起兵すると、王懐は3000家あまりの部衆とともに高歓に帰順した。高歓が爾朱兆を広阿で討つと、王懐は安北将軍・蔚州刺史となった。高歓の下で鄴を攻撃し、爾朱氏を韓陵に討って、爵位は侯に進んだ。高歓が洛陽に入ると、王懐は車騎将軍に任じられ、盧郷県侯に改封された。
534年、東魏が建国されると、使持節・広州諸軍事となった。535年、梁の湛僧珍・楊暕らが侵攻してくると、王懐は行台の元晏とともに項城を攻撃して落とし、楊暕を捕らえた。また高歓の下で西夏州を落とした。帰還すると、大都督となり、下館に駐屯して、儀同三司の位を受けた。538年、西魏に対する攻撃に従ったが、建州で病没した。定幽恒肆四州諸軍事・司徒公・尚書僕射の位を追贈された。