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[[達奚武]]の子として生まれた。[[535年]]、員外散騎常侍を初任とした。[[宇文泰]]が渭北で狩猟をおこなったとき、ウサギが宇文泰の前を走り去り、達奚震と諸将が競ってこれを射たが、馬が倒れて達奚震は落馬しながらつまずかず、そのまま走りながら射て、一発でウサギに当てた。振り返って馬を起こし、身を翻して騎乗した。宇文泰は喜んで、「この父がなければこの子も生まれなかった」といい、父の達奚武に雑絹100段を与えた。[[550年]]、達奚震は昌邑県公に封ぜられた。撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に累進した。[[557年]]、[[明帝 (北周)|明帝]]が即位すると、儀同・司右中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、普寧県公に改封された。[[559年]]、広平郡公に進み、華州刺史に任ぜられた。
[[達奚武]]の子として生まれた。[[535年]]、員外散騎常侍を初任とした。[[宇文泰]]が渭北で狩猟をおこなったとき、ウサギが宇文泰の前を走り去り、達奚震と諸将が競ってこれを射たが、馬が倒れて達奚震は落馬しながらつまずかず、そのまま走りながら射て、一発でウサギに当てた。振り返って馬を起こし、身を翻して騎乗した。宇文泰は喜んで、「この父がなければこの子も生まれなかった」といい、父の達奚武に雑絹100段を与えた。[[550年]]、達奚震は昌邑県公に封ぜられた。撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に累進した。[[557年]]、[[明帝 (北周)|明帝]]が即位すると、儀同・司右中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、普寧県公に改封された。[[559年]]、広平郡公に進み、華州刺史に任ぜられた。


[[564年]]、東征に従い、諸将はみな敗走したが、達奚震は[[北斉]]軍と交戦しながら、自軍を全うして帰還した。[[566年]]、[[大将軍]]に進み、兵を率いて[[稽胡]]を討ち、これを撃破した。[[571年]]、柱国の位を受けた。[[572年]]、鄭国公の爵位を継ぎ、金州総管・十一州九防諸軍事・金州刺史として出向した。[[575年]]、[[武帝 (北周)|武帝]]に従って東征し、前三軍総管をつとめた。[[576年]]、また東征に従い、歩騎1万を率いて統軍川を守り、義寧・烏蘇の二鎮を攻め落とし、[[并州]]を落とした。位は上柱国に進んだ。[[577年]]、[[ギョウ|鄴]]の平定にも従い、妾2人・女楽1部および珍玩などを賞与され、大宗伯に任ぜられた。父の達奚武がかつてつとめたのもこの職であり、ときの世に栄耀を論じられた。[[578年]]、原州総管・三州二鎮諸軍事・原州刺史として出向した。まもなく辞任して[[長安]]に帰った。[[隋]]の[[開皇]]初年、家で死去した。
[[564年]]、東征に従い、諸将はみな敗走したが、達奚震は[[北斉]]軍と交戦しながら、自軍を全うして帰還した。[[566年]]、[[大将軍]]に進み、兵を率いて[[稽胡]]を討ち、これを撃破した。[[571年]]、柱国の位を受けた。[[572年]]、鄭国公の爵位を継ぎ、金州総管・十一州九防諸軍事・金州刺史として出向した。[[575年]]、[[武帝 (北周)|武帝]]に従って東征し、前三軍総管をつとめた。[[576年]]、また東征に従い、歩騎1万を率いて統軍川を守り、義寧・烏蘇の二鎮を攻め落とし、[[并州]]を落とした。位は上柱国に進んだ。[[577年]]、[[鄴]]の平定にも従い、妾2人・女楽1部および珍玩などを賞与され、大宗伯に任ぜられた。父の達奚武がかつてつとめたのもこの職であり、ときの世に栄耀を論じられた。[[578年]]、原州総管・三州二鎮諸軍事・原州刺史として出向した。まもなく辞任して[[長安]]に帰った。[[隋]]の[[開皇]]初年、家で死去した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年7月31日 (金) 09:35時点における版

達奚 震(たつけい しん、生没年不詳)は、中国北周軍人は猛略。本貫代郡

経歴

達奚武の子として生まれた。535年、員外散騎常侍を初任とした。宇文泰が渭北で狩猟をおこなったとき、ウサギが宇文泰の前を走り去り、達奚震と諸将が競ってこれを射たが、馬が倒れて達奚震は落馬しながらつまずかず、そのまま走りながら射て、一発でウサギに当てた。振り返って馬を起こし、身を翻して騎乗した。宇文泰は喜んで、「この父がなければこの子も生まれなかった」といい、父の達奚武に雑絹100段を与えた。550年、達奚震は昌邑県公に封ぜられた。撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に累進した。557年明帝が即位すると、儀同・司右中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、普寧県公に改封された。559年、広平郡公に進み、華州刺史に任ぜられた。

564年、東征に従い、諸将はみな敗走したが、達奚震は北斉軍と交戦しながら、自軍を全うして帰還した。566年大将軍に進み、兵を率いて稽胡を討ち、これを撃破した。571年、柱国の位を受けた。572年、鄭国公の爵位を継ぎ、金州総管・十一州九防諸軍事・金州刺史として出向した。575年武帝に従って東征し、前三軍総管をつとめた。576年、また東征に従い、歩騎1万を率いて統軍川を守り、義寧・烏蘇の二鎮を攻め落とし、并州を落とした。位は上柱国に進んだ。577年の平定にも従い、妾2人・女楽1部および珍玩などを賞与され、大宗伯に任ぜられた。父の達奚武がかつてつとめたのもこの職であり、ときの世に栄耀を論じられた。578年、原州総管・三州二鎮諸軍事・原州刺史として出向した。まもなく辞任して長安に帰った。開皇初年、家で死去した。

伝記資料

  • 周書』巻十九 列伝第十一
  • 北史』巻六十五 列伝第五十三