「元樹」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
7行目: | 7行目: | ||
[[528年]]、[[爾朱栄]]が河陰の変で北魏の官僚たちを殺害したことを聞くと、元樹は爾朱栄を討伐するよう武帝に請願した。武帝は元樹に兵馬を率いさせて北魏に侵攻させた。[[530年]]、元樹は[[侍中]]・鎮右将軍となった。[[532年]]、鎮北将軍・都督北討諸軍事となり、北魏の譙城を落とした。北魏の樊子鵠・杜徳らが攻撃してきたため、元樹は城を堅く守って撃退した。樊子鵠が金紫光禄大夫の張安期を派遣して交渉し、元樹が譙城を放棄して南に帰ることで話がまとまった。元樹は誓約を信じて、戦いの備えをしていなかった。そこに杜徳の襲撃を受け、捕らえられて[[洛陽]]に送られた。永寧仏寺(『[[北史]]』では景明寺)に拘禁され、まもなく死を賜った。 |
[[528年]]、[[爾朱栄]]が河陰の変で北魏の官僚たちを殺害したことを聞くと、元樹は爾朱栄を討伐するよう武帝に請願した。武帝は元樹に兵馬を率いさせて北魏に侵攻させた。[[530年]]、元樹は[[侍中]]・鎮右将軍となった。[[532年]]、鎮北将軍・都督北討諸軍事となり、北魏の譙城を落とした。北魏の樊子鵠・杜徳らが攻撃してきたため、元樹は城を堅く守って撃退した。樊子鵠が金紫光禄大夫の張安期を派遣して交渉し、元樹が譙城を放棄して南に帰ることで話がまとまった。元樹は誓約を信じて、戦いの備えをしていなかった。そこに杜徳の襲撃を受け、捕らえられて[[洛陽]]に送られた。永寧仏寺(『[[北史]]』では景明寺)に拘禁され、まもなく死を賜った。 |
||
子の元貞が[[東魏]]の[[孝静帝]]を頼って、[[ |
子の元貞が[[東魏]]の[[孝静帝]]を頼って、[[鄴]]におもむき、元樹の埋葬を求めて許された。元樹に侍中・都督青徐兗揚豫五州諸軍事・[[太師]]・[[司徒]]公・[[尚書令]]・揚州刺史の位が追贈された。元貞は父を埋葬すると、[[江南]]に帰り太子舎人となった。[[侯景の乱]]のとき、元貞は咸陽王となった。 |
||
== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年7月31日 (金) 09:34時点における版
元 樹(げん じゅ、485年 - 532年)は、中国の北魏の皇族。献文帝の孫。南朝梁に亡命した。字は秀和、または君立。
経歴
咸陽王元禧の子として生まれた。美貌と将才で知られた。宗正卿となった。父の死後、兄の元翼や元昌らとともに南朝の梁に亡命した。武帝に気に入られ、魏郡王に封ぜられた。後に鄴王に改封された。揚州が梁に降ったとき、梁の将の湛僧珍が揚州の兵の変心を憂慮して、全て殺そうとした。元樹のはからいで、揚州の兵は北魏に帰ることができた。525年、元樹は梁の使持節・都督郢司霍三州諸軍事・雲麾将軍・郢州刺史となった。南方の辺境の乱の討伐に活躍し、安西将軍となった。
528年、爾朱栄が河陰の変で北魏の官僚たちを殺害したことを聞くと、元樹は爾朱栄を討伐するよう武帝に請願した。武帝は元樹に兵馬を率いさせて北魏に侵攻させた。530年、元樹は侍中・鎮右将軍となった。532年、鎮北将軍・都督北討諸軍事となり、北魏の譙城を落とした。北魏の樊子鵠・杜徳らが攻撃してきたため、元樹は城を堅く守って撃退した。樊子鵠が金紫光禄大夫の張安期を派遣して交渉し、元樹が譙城を放棄して南に帰ることで話がまとまった。元樹は誓約を信じて、戦いの備えをしていなかった。そこに杜徳の襲撃を受け、捕らえられて洛陽に送られた。永寧仏寺(『北史』では景明寺)に拘禁され、まもなく死を賜った。
子の元貞が東魏の孝静帝を頼って、鄴におもむき、元樹の埋葬を求めて許された。元樹に侍中・都督青徐兗揚豫五州諸軍事・太師・司徒公・尚書令・揚州刺史の位が追贈された。元貞は父を埋葬すると、江南に帰り太子舎人となった。侯景の乱のとき、元貞は咸陽王となった。