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北魏の安北府司馬の段連の子として生まれた。一族とともに[[五原郡]]に住んで成長した。若い頃から暦術を好み、天文を得意とした。北魏の[[正光]]初年には天文現象から乱の予兆を見出していたと伝えられる。[[六鎮の乱]]が起こると、郷里の人々とともに南の[[大同市|平城]]におもむき、[[杜洛周]]の乱に巻き込まれた。段栄は[[高歓]]と謀議して杜洛周を殺害しようとしたが、失敗して[[爾朱栄]]のもとに逃れた。 |
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後に段栄は高歓の起兵に賛同して、行台右丞・西北道慰喩大使となって、各地の説得にあたった。高歓が[[鄴]]を攻撃すると、段栄は信都の留守をまもって、鎮北将軍・[[定州]][[刺史]]に任じられた。鄴に対する攻撃は長期戦となったが、段栄は軍需物資の補給を欠かさなかった。高歓が[[洛陽]]に入ると、段栄は功績により姑臧県侯に封ぜられ、邑八百戸を受けた。[[瀛州]]刺史に転じた。段栄の妻の婁信相が高歓の妻の[[婁昭君]](武明婁皇后)の姉であったため、段栄は高歓が親族を贔屓しているものとみられるのをおそれ、諸将を推薦して瀛州に赴任しなかった。まもなく行[[相州]]事となり、後に[[済州 (山東省)|済州]]刺史となった。[[536年]]、行[[泰州]]事に転じた。段栄は性格が温和で、その統治は寛容であったため、民衆や官吏たちに愛された。高歓が[[関中]]を攻撃したとき、段栄は時期尚早として反対した。高歓は渭曲で敗れて、「わたしが段栄の言を用いなかったので、こうなったのだ」と悔しがった。 |
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2020年7月31日 (金) 09:34時点における版
段 栄(だん えい、478年 - 539年)は、北魏・東魏の官僚・軍人。字は子茂。本貫は武威郡姑臧県。
経歴
北魏の安北府司馬の段連の子として生まれた。一族とともに五原郡に住んで成長した。若い頃から暦術を好み、天文を得意とした。北魏の正光初年には天文現象から乱の予兆を見出していたと伝えられる。六鎮の乱が起こると、郷里の人々とともに南の平城におもむき、杜洛周の乱に巻き込まれた。段栄は高歓と謀議して杜洛周を殺害しようとしたが、失敗して爾朱栄のもとに逃れた。
後に段栄は高歓の起兵に賛同して、行台右丞・西北道慰喩大使となって、各地の説得にあたった。高歓が鄴を攻撃すると、段栄は信都の留守をまもって、鎮北将軍・定州刺史に任じられた。鄴に対する攻撃は長期戦となったが、段栄は軍需物資の補給を欠かさなかった。高歓が洛陽に入ると、段栄は功績により姑臧県侯に封ぜられ、邑八百戸を受けた。瀛州刺史に転じた。段栄の妻の婁信相が高歓の妻の婁昭君(武明婁皇后)の姉であったため、段栄は高歓が親族を贔屓しているものとみられるのをおそれ、諸将を推薦して瀛州に赴任しなかった。まもなく行相州事となり、後に済州刺史となった。536年、行泰州事に転じた。段栄は性格が温和で、その統治は寛容であったため、民衆や官吏たちに愛された。高歓が関中を攻撃したとき、段栄は時期尚早として反対した。高歓は渭曲で敗れて、「わたしが段栄の言を用いなかったので、こうなったのだ」と悔しがった。
537年、段栄は山東大行台・大都督に任じられ、すこぶる民心を得た。
539年5月に、62歳で死去した。使持節・定冀滄瀛四州諸軍事・定州刺史・太尉・尚書左僕射の位を追贈され、諡を昭景といった。
562年、さらに大司馬・尚書令の位を贈られ、武威王に追封された。