「ビザンツの服飾」の版間の差分
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File:Mosaic of Justinian I - Sant'Apoilinare Nuovo - Ravenna 2016.png|後期のダイアデムを被ったユスティニアヌス1世 |
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File:Emperor Constantine IX (cropped enhanced).jpg|ステンマを被った[[コンスタンティノス8世]] |
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File:ConstantinoXI.jpg|後期のカメラウキオンを被った[[コンスタンティノス11世パレオロゴス |
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File:Kameraukion.png|カメラウキオン |
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2020年7月28日 (火) 09:37時点における版
ビザンツの服飾(英語: Byzantine dress)とは、5世紀から15世紀までの東ローマ帝国(ビザンツ帝国)版図周辺で使用された服装を指す。
特徴
ビザンツの服飾の特徴としては、トガの衰退と宝石や黄金、紋織の流行が挙げられる。
かつて古代ローマの公服だったトガは有名無実の名誉職となった執政官の象徴として残ったが、6世紀のユスティニアヌス帝のころにはほぼ消滅した。 身分標識となる外衣として、パルダメントゥムという貴族のみが用いるマントがトガに代わった。トガはロールムという布帯としてわずかに痕跡をとどめた。
ビザンツの服飾文化は基本的にローマ帝国時代末期のダルマティカというチュニックを重ねたものをほぼ踏襲したが、ローマ帝国時代の上流階級の衣装が基本的に無地のウールだったのに比べて、ビザンツでは綴れ織りの技術が飛躍的に発達している。 綴れ織りの技術は「コプト織」という麻毛混織の綴れ織りを考案したコプト人(エジプトのキリスト教徒の一派)が広めていた。 エジプト風の豪華な衿型首飾りやペルシア風の意匠が施された装飾品など、異民族の文化が大規模に流入していたことが伺える。 前時代には野蛮と考えられていたゲルマン人たちのズボン型衣服も広く着用されるようになっていた。 上流階級には金糸刺繍や宝石を縫いつけた衣装が流行し、ゆるやかな襞を取った衣装は影をひそめて厚い生地に細かく刺繍が施されたこわばった衣装となった。
また、キリスト教の聖職者の制服にあたる法服が生まれたのもビザンツのころである。
男子の衣装
ビザンツの服装は基本的にローマのものをそのまま踏襲した。 世俗世界の服装、特に庶民層の服飾についての資料はほとんどない。
一般庶民
肌着となるチュニックの上にダルマティカというゆるやかなチュニックを重ねた。 ダルマティカは女性のものより短いとはいえ、おそらく膝下丈より長いものであった。 上着としてはパリウムという巻き布を用いていたと考えられている。 このファッションは西欧の王族に盛んにまねられ、大流行した。 ローマ帝国末期にゲルマン人たちが着ていたチュニックが「尻が見える衣装」と評されていたことからして、ゲルマン民族はもともと尻丈ほどのごく短いチュニックを着ていたものと思われる。
上流階級
貴族は上流階級のあかしとしてパルダメントゥムというマントをまとった。 長方形もしくは台形の上等なウールでできており、右肩でブローチで留めて着るもので、ローマ帝国末期に高級軍人の衣装として着用されていたものが貴族の衣服として引き継がれた。 パルダメントゥムには、左右に刺繍を施すなど豪華なタブリオンという四角いアップリケが施されていた。
正装にはロールムと云う豪華に装飾を施した帯を肩から体の正面にY字に巻いていた。 また、シュペルユメアルという錦織の飾り襟も身につけられている。
皇帝の衣服と装飾
皇帝や皇后の衣服はペルシアの名物である緋色で染められていた。
足にはサンダルをはくが、これもペルシア産の子ヒツジの皮で作られた赤や黄色のサンダルであった。西アジアの文化を吸収し、ペルシアの文化の多くも継承し、装飾品もそれに合うものが作られるようになる。
帝冠
- ダイアデム
ごく初期の時代では、皇帝は頭に古代ローマ由来の月桂冠ではなく、ダイヤモンドを飾り真珠の紐をつけた古代ローマ由来の意匠とペルシア風の装飾を併せ持った「ダイアデム」という王冠をかぶり、東ローマ皇帝は公務に臨んだ。
- ステンマ
しかし、だんだんと東方色が強まるにつれ、6世紀頃からは「ステンマ」と呼ばれる、被り物に環形装飾板が付き、装飾板には宝石類の付いた垂れ飾りが吊るさた冠を使用するようになり、だんだんと古代ローマ離れをしていく。所謂「ビザンチン」と呼ばれる時代となって行く事と成る。
- カメラウキオン
9世紀ごろからは「カメラウキオン」と呼ばれる冠が使われた。アーチ形の装飾板をピンで輪形に留めたステンマ型の冠に、ビザンツ皇帝の証であるステンマの正面と真後ろをアーチで結び、十字架が付いた冠が登場し、ビザンツ皇帝の公務にも着用され、カメラウキオンの戴冠は帝国の崩壊まで続く。カメラウキオンは、後に西ヨーロッパ地域(ゲルマン人の支配領域)でも使われるようになり、その代表にハンガリー王国の「聖イシュトヴァーンの王冠」、神聖ローマ帝国の「神聖ローマ皇帝冠」などがあげられる。それらは後に、「アーム」と言う冠の構成要素と化す。
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後期のダイアデムを被ったユスティニアヌス1世
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ステンマを被ったコンスタンティノス8世
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後期のカメラウキオンを被ったコンスタンティノス11世パレオロゴス
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カメラウキオン
女子の衣装
キリスト教の国教化ののち、ダルマティカが身分の上下を問わず着られるようになった。 世俗の庶民の服装についての資料は非常に少ないが、上流階級の男性に比べて変化は少ないものと思われる。 上流階級においては、衣装そのものは男性よりもやや保守的だが豪華さにおいては男性をしのいでいた。
教義のために、体の線を出す服装は嫌われて長い袖の肌着にゆったりした上衣を着て肌を表すことがなくなった。 また、外出時にヴェールで髪や顔を覆うことも中流階級以上で一般的になった。
一般庶民
幅の狭い長袖のチュニックの上に、肩から腕を小型のブローチで留めるストーラか踝丈の広袖チュニックであるダルマティカを重ねて着ていた。 チュニックの腰にはベルトを締め、外套としてパルラという一枚布を纏った。
上流階級
黄金と宝石がふんだんに用いられたビザンツ風の衣装は西欧の王族たちのあこがれの的であった。 イヤリング、ネックレス、指輪、ブローチ、腕輪などが黄金と宝石で作られたほか、黄金のベルトなども使われていた。 貴婦人の間では古代エジプトでつかわれていたような大きな衿型の首飾りが流行したようだ。 髪はターバン型に大きく結い、さまざまな冠型の髪飾りが流行している。
正装にはパタギウムという布帯を掛けた。
参考文献
- 丹野郁 編『西洋服飾史 増訂版』東京堂出版 ISBN 4-49020367-5
- 千村典生『ファッションの歴史』鎌倉書房 ISBN 4-308-00547-7
- 深井晃子監修『カラー版世界服飾史』美術出版社 ISBN 4-568-40042-2