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その後直隷布政使に異動となり、さらに山東巡撫に抜擢された。[[山東省]]では[[捻軍]]と戦い、[[曹県|曹州]]や[[単県]]でこれを破った。[[1860年]]、[[アロー戦争]]の戦局が悪化し、イギリス・フランス連合軍が[[北京市|北京]]に迫ると軍を派遣して[[通州区 (北京市)|通州]]に駐屯させ、自らは[[済寧市|済寧]]で捻軍との戦いにあたった。
その後直隷布政使に異動となり、さらに山東巡撫に抜擢された。[[山東省]]では[[捻軍]]と戦い、[[曹県|曹州]]や[[単県]]でこれを破った。[[1860年]]、[[アロー戦争]]の戦局が悪化し、イギリス・フランス連合軍が[[北京市|北京]]に迫ると軍を派遣して[[通州区 (北京市)|通州]]に駐屯させ、自らは[[済寧市|済寧]]で捻軍との戦いにあたった。


[[1861年]]、[[直隷総督]]に就任したが、翌年に[[張錫珠]]の蜂起軍を鎮圧できなかったことで免職となった。[[1863年]]に鑲黄旗蒙古副都統に任命された。[[1868年]]、正藍旗漢軍都統・福州将軍となり、[[1871年]]には[[閩浙総督]]代理を兼ねた。[[1874年]]の日本の[[台湾出兵]]に際しては総督の[[李鶴年]]、船政大臣の[[沈葆テイ|沈葆楨]]とともに防衛にあたった。
[[1861年]]、[[直隷総督]]に就任したが、翌年に[[張錫珠]]の蜂起軍を鎮圧できなかったことで免職となった。[[1863年]]に鑲黄旗蒙古副都統に任命された。[[1868年]]、正藍旗漢軍都統・福州将軍となり、[[1871年]]には[[閩浙総督]]代理を兼ねた。[[1874年]]の日本の[[台湾出兵]]に際しては総督の[[李鶴年]]、船政大臣の[[沈葆楨]]とともに防衛にあたった。


[[1877年]]、北京に呼び戻され、内大臣・鑲白旗漢軍都統・左都御史に任命され、さらに刑部尚書となった。その後[[1881年]]に[[協弁大学士]]、[[1883年]]には総管内務府大臣、[[1884年]]には[[武英殿大学士]]を歴任した。同年に病で辞任。死後、文達の[[諡号]]が贈られた。
[[1877年]]、北京に呼び戻され、内大臣・鑲白旗漢軍都統・左都御史に任命され、さらに刑部尚書となった。その後[[1881年]]に[[協弁大学士]]、[[1883年]]には総管内務府大臣、[[1884年]]には[[武英殿大学士]]を歴任した。同年に病で辞任。死後、文達の[[諡号]]が贈られた。

2020年7月26日 (日) 10:41時点における版

文煜(ぶんいく、Wenyu、? - 1884年)、字は星巌朝の官僚。

満州正藍旗人。フォイモ氏(Foimo hala、費莫氏)。刑部郎中、直隷霸昌道、四川按察使などをへて、1853年に江寧布政使に任命された。当時南京太平天国軍に占領されており、文煜は欽差大臣キシャン(琦善)に従って江北大営に駐屯した。1854年、キシャンが病死すると配下の郷勇と食糧補給の事務を引き継いだ。揚州から出撃する太平天国軍と戦ってしばしば打ち破った。1857年、江蘇布政使に転任となり、江南大営の補給を担当した。

その後直隷布政使に異動となり、さらに山東巡撫に抜擢された。山東省では捻軍と戦い、曹州単県でこれを破った。1860年アロー戦争の戦局が悪化し、イギリス・フランス連合軍が北京に迫ると軍を派遣して通州に駐屯させ、自らは済寧で捻軍との戦いにあたった。

1861年直隷総督に就任したが、翌年に張錫珠の蜂起軍を鎮圧できなかったことで免職となった。1863年に鑲黄旗蒙古副都統に任命された。1868年、正藍旗漢軍都統・福州将軍となり、1871年には閩浙総督代理を兼ねた。1874年の日本の台湾出兵に際しては総督の李鶴年、船政大臣の沈葆楨とともに防衛にあたった。

1877年、北京に呼び戻され、内大臣・鑲白旗漢軍都統・左都御史に任命され、さらに刑部尚書となった。その後1881年協弁大学士1883年には総管内務府大臣、1884年には武英殿大学士を歴任した。同年に病で辞任。死後、文達の諡号が贈られた。


出典

先代
崇恩(チュンエン)
山東巡撫
1859-1861
次代
譚廷襄
先代
恒福(ヘンフ)
直隷総督
1861-1862
次代
劉長佑
先代
イングイ(英桂)
閩浙総督
1871
次代
李鶴年
先代
全慶(チュワンキン)
刑部満尚書
1878-1884
次代
恩承(エンチェン)