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* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] (1998 - 2002)
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* [[中信ホエールズ]](2003)
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* [[白大学]](2006 - 2007)
* [[白大学]](2006 - 2007)
* [[東京国際大学]](2008 - 2014)
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* [[横浜DeNAベイスターズ]] (2016 - 2017)
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オーバースローの本格派右腕で速球に威力があり、制球力も相応にあった。変化球はカーブ、シュート、シンカー、フォーク。[[松岡弘]]や[[安田猛 (野球)|安田猛]]らとともに、主力投手として10年間で70勝を挙げ、ヤクルト不遇の時代を支えた。{{by|1971年}}5月25日の対巨人戦では[[長嶋茂雄]]に通算2000本安打を打たれている。また[[王貞治]]が756号本塁打を記録した{{by|1977年}}9月3日の対ヤクルト戦で完投勝利を記録している。巨人時代には、歳をとるごとに球速が早くなる男とアナウンサーに呼ばれており、スピードガン黎明期に149キロでキレのある速球を投げていた。
オーバースローの本格派右腕で速球に威力があり、制球力も相応にあった。変化球はカーブ、シュート、シンカー、フォーク。[[松岡弘]]や[[安田猛 (野球)|安田猛]]らとともに、主力投手として10年間で70勝を挙げ、ヤクルト不遇の時代を支えた。{{by|1971年}}5月25日の対巨人戦では[[長嶋茂雄]]に通算2000本安打を打たれている。また[[王貞治]]が756号本塁打を記録した{{by|1977年}}9月3日の対ヤクルト戦で完投勝利を記録している。巨人時代には、歳をとるごとに球速が早くなる男とアナウンサーに呼ばれており、スピードガン黎明期に149キロでキレのある速球を投げていた。


その後は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]「[[ラジオ日本ジャイアンツナイター|ジャイアンツナイター]]」・[[テレビ朝日]][[野球解説者|解説者]]({{by|1985年}} - {{by|1989年}})を経て、ヤクルト({{by|1990年}} - {{by|1996年}}二軍投手コーチ)・[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]({{by|1998年}} - {{by|1999年}}・{{by|2002年}}一軍投手コーチ, {{by|2000年}} - {{by|2001年}}二軍投手コーチ)・[[中信ホエールズ|中信]]({{by|2003年}}投手コーチ<ref name="jinmei" />)でコーチを歴任。{{by|2004年}}から{{by|2005年}}までは、2年間の充電期間を経て、{{by|2006年}}より[[藤倉一雅]](元[[阪神タイガース|阪神]]・[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])らと共に、元プロ野球選手としては初めて[[大学野球]]の指導者になる事が決まり、[[白大学]]の投手コーチに就任。同年途中から監督となるが、{{by|2007年}}限りで退任。{{by|2008年}}からは[[古葉竹識]]監督の下、[[東京国際大学]]の投手コーチに就任。[[伊藤和雄]]を送り出し、{{by|2014年}}[[6月]]限りで退任。その後はシニアリーグで中学生を指導しつつ、60歳以上の還暦野球でプレーをしていた。{{by|1997年}}、{{by|2015年}}は1年間の浪人生活を経て、{{by|2016年}}から[[2017年]]まで2年間は[[横浜DeNAベイスターズ]]で二軍巡回投手コーチを務めた。その後は故郷・福山へ帰っている。
その後は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]「[[ラジオ日本ジャイアンツナイター|ジャイアンツナイター]]」・[[テレビ朝日]][[野球解説者|解説者]]({{by|1985年}} - {{by|1989年}})を経て、ヤクルト({{by|1990年}} - {{by|1996年}}二軍投手コーチ)・[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]({{by|1998年}} - {{by|1999年}}・{{by|2002年}}一軍投手コーチ, {{by|2000年}} - {{by|2001年}}二軍投手コーチ)・[[中信ホエールズ|中信]]({{by|2003年}}投手コーチ<ref name="jinmei" />)でコーチを歴任。{{by|2004年}}から{{by|2005年}}までは、2年間の充電期間を経て、{{by|2006年}}より[[藤倉一雅]](元[[阪神タイガース|阪神]]・[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])らと共に、元プロ野球選手としては初めて[[大学野球]]の指導者になる事が決まり、[[白大学]]の投手コーチに就任。同年途中から監督となるが、{{by|2007年}}限りで退任。{{by|2008年}}からは[[古葉竹識]]監督の下、[[東京国際大学]]の投手コーチに就任。[[伊藤和雄]]を送り出し、{{by|2014年}}[[6月]]限りで退任。その後はシニアリーグで中学生を指導しつつ、60歳以上の還暦野球でプレーをしていた。{{by|1997年}}、{{by|2015年}}は1年間の浪人生活を経て、{{by|2016年}}から[[2017年]]まで2年間は[[横浜DeNAベイスターズ]]で二軍巡回投手コーチを務めた。その後は故郷・福山へ帰っている。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2020年7月24日 (金) 07:47時点における版

浅野 啓司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県福山市
生年月日 (1949-02-22) 1949年2月22日(75歳)
身長
体重
175 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト9位
初出場 1967年4月8日
最終出場 1984年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

浅野 啓司(あさの けいし、1949年2月22日 - )は、広島県福山市[1]草戸町出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

経歴

創部3年目の福山電波工業高校に進学し、1965年には2年生エースとして夏の甲子園広島県予選で活躍。低めに球を集める抜群の制球力で、伊原春樹のいた北川工業山本和行三村敏之のいた広島商業高校を撃破。50イニングを投げ失点1と決勝まで勝ち上がったが、広陵高校の河本和昭投手に完封され敗退、甲子園出場を逸する[1]。高校の1学年下の後輩に村田兆治がいる。

3年時に別の選手を見に来ていたサンケイアトムズのスカウトの目に留まり、1966年の第1次ドラフトでサンケイから9位指名され入団。高卒ルーキーながら、いきなり50試合に登板し8勝を挙げた。1969年には鈴木皖武に代わり、抑えの切り札として起用される。チーム合計33勝だった1970年には先発に戻り、前半だけで6勝を挙げるが、後半は故障で離脱。その後も先発陣の一角を占め、1973年に14勝、1974年に12勝を挙げる。しかし翌年に腰を痛め登板機会が減少、監督の広岡達朗の指導法とも合わず低迷を続ける。

1977年には倉田誠との交換トレードで巨人に移籍。これは浅野が「巨人キラー」と呼ばれていた事もあり、巨人好きと言われたヤクルトオーナーの松園尚巳からのプレゼントとも称された。同年9勝4敗1セーブをあげ、カムバック賞を受賞、リーグ優勝に貢献する。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは3試合に登板。第3戦では12回表を抑え、その裏には河埜和正がサヨナラ本塁打、自身の日本シリーズ初勝利を記録する。しかし第4戦では9回表、山田久志に適時二塁打を喫し敗戦投手となった。翌年以降も中継ぎ、抑えとして長く活躍を続けるが、1984年限りで現役引退。

オーバースローの本格派右腕で速球に威力があり、制球力も相応にあった。変化球はカーブ、シュート、シンカー、フォーク。松岡弘安田猛らとともに、主力投手として10年間で70勝を挙げ、ヤクルト不遇の時代を支えた。1971年5月25日の対巨人戦では長嶋茂雄に通算2000本安打を打たれている。また王貞治が756号本塁打を記録した1977年9月3日の対ヤクルト戦で完投勝利を記録している。巨人時代には、歳をとるごとに球速が早くなる男とアナウンサーに呼ばれており、スピードガン黎明期に149キロでキレのある速球を投げていた。

その後はラジオ日本ジャイアンツナイター」・テレビ朝日解説者1985年 - 1989年)を経て、ヤクルト(1990年 - 1996年二軍投手コーチ)・日本ハム1998年 - 1999年2002年一軍投手コーチ, 2000年 - 2001年二軍投手コーチ)・中信2003年投手コーチ[1])でコーチを歴任。2004年から2005年までは、2年間の充電期間を経て、2006年より藤倉一雅(元阪神ロッテ)らと共に、元プロ野球選手としては初めて大学野球の指導者になる事が決まり、白鷗大学の投手コーチに就任。同年途中から監督となるが、2007年限りで退任。2008年からは古葉竹識監督の下、東京国際大学の投手コーチに就任。伊藤和雄を送り出し、2014年6月限りで退任。その後はシニアリーグで中学生を指導しつつ、60歳以上の還暦野球でプレーをしていた。1997年2015年は1年間の浪人生活を経て、2016年から2017年まで2年間は横浜DeNAベイスターズで二軍巡回投手コーチを務めた。その後は故郷・福山へ帰っている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1967 サンケイ
アトムズ
ヤクルト
50 9 2 0 0 8 10 -- -- .444 603 149.2 134 17 26 4 7 69 4 0 53 46 2.77 1.07
1968 36 7 0 0 0 4 6 -- -- .400 332 79.2 76 10 24 4 3 49 6 0 49 38 4.29 1.26
1969 54 2 0 0 0 9 6 -- -- .600 524 133.0 110 7 29 2 7 95 3 0 44 39 2.64 1.05
1970 28 14 5 1 0 6 12 -- -- .333 537 123.0 125 17 48 5 5 78 3 0 61 53 3.88 1.41
1971 38 23 5 1 0 7 14 -- -- .333 678 163.1 147 16 67 9 6 96 0 0 64 58 3.20 1.31
1972 37 20 5 1 0 6 14 -- -- .300 691 168.1 146 18 65 7 5 98 0 0 86 74 3.96 1.25
1973 43 20 2 1 0 14 12 -- -- .538 716 178.1 137 15 63 9 2 136 1 1 56 47 2.37 1.12
1974 41 27 19 3 3 12 15 5 -- .444 990 256.0 202 23 50 4 6 148 2 1 78 68 2.39 0.98
1975 22 7 0 0 0 1 4 0 -- .200 266 57.0 76 10 25 0 3 33 1 1 44 42 6.63 1.77
1976 23 5 2 1 0 3 6 1 -- .333 253 59.0 62 6 15 1 1 33 0 0 28 23 3.51 1.31
1977 巨人 31 7 2 0 0 9 4 1 -- .692 394 93.1 86 13 38 4 1 61 3 0 32 26 2.51 1.33
1978 23 8 0 0 0 2 3 0 -- .400 206 45.2 45 2 29 0 0 21 0 0 33 29 5.72 1.62
1979 21 5 0 0 0 2 3 0 -- .400 229 49.1 60 8 27 2 1 33 2 0 34 33 6.02 1.76
1980 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 7.0 6 0 2 0 0 3 0 0 3 3 3.86 1.14
1981 25 1 0 0 0 1 2 0 -- .333 188 43.1 39 2 22 1 2 33 0 0 20 19 3.95 1.41
1982 35 1 0 0 0 2 4 3 -- .333 272 67.2 56 1 21 2 0 45 1 0 26 19 2.53 1.14
1983 14 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 81 18.0 26 4 4 0 1 5 0 0 19 19 9.50 1.67
1984 18 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 97 24.0 25 2 8 1 0 7 0 0 11 11 4.13 1.38
通算:18年 542 156 42 8 3 86 116 10 -- .426 7084 1715.2 1558 171 563 55 50 1043 26 3 741 647 3.39 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズ、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

表彰

記録

初記録
  • 初登板:1967年4月8日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に3番手で救援登板・完了、2回2失点
  • 初奪三振:同上、7回裏に西園寺昭夫から
  • 初勝利:1967年5月26日、対広島カープ5回戦(明治神宮野球場)、3回表1死に2番手で救援登板・完了、6回2/3を無失点
  • 初先発:1967年6月13日、対読売ジャイアンツ8回戦(明治神宮野球場)、1回2/3を5失点(自責点3)で敗戦投手
  • 初先発勝利・初完投勝利:1967年7月17日、対中日ドラゴンズ13回戦(明治神宮野球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1970年6月6日、対読売ジャイアンツ9回戦(明治神宮野球場)
  • 初セーブ:1974年4月22日、対広島東洋カープ2回戦(明治神宮野球場)、9回表2死に2番手で救援登板・完了、1/3回無失点
節目の記録
  • 1000投球回数:1974年4月7日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場) ※史上166人目
  • 1500投球回数:1978年7月30日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場) ※史上91人目
  • 1000奪三振:1982年6月22日、対中日ドラゴンズ12回戦(後楽園球場)、9回表に金山卓嗣から ※史上65人目
  • 500試合登板:1982年9月1日、対ヤクルトスワローズ24回戦(後楽園球場)、6回表1死に3番手で救援登板、1回2/3を無失点 ※史上49人目
その他の記録

背番号

  • 36 (1967年)
  • 19 (1968年 - 1976年)
  • 17 (1977年 - 1984年)
  • 86 (1990年 - 1996年)
  • 75 (1998年 - 2003年)
  • 70 (2016年 - 2017年)

脚注

  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、11ページ

関連情報

出演番組

関連項目

外部リンク