コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「荘順皇貴妃」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:
'''荘順皇貴妃'''(そうじゅんこうきひ、[[道光]]2年([[1822年]]) - [[同治]]5年([[1866年]]))は、[[清]]の第8代[[皇帝]][[道光帝]]の側室で、第11代皇帝[[光緒帝]]の祖母。ウヤ(烏雅)氏。筆貼式(七品以下の文員)の霊寿の娘。母は妾の翁氏<ref>『烏雅氏族譜』</ref>。
'''荘順皇貴妃'''(そうじゅんこうきひ、[[道光]]2年([[1822年]]) - [[同治]]5年([[1866年]]))は、[[清]]の第8代[[皇帝]][[道光帝]]の側室で、第11代皇帝[[光緒帝]]の祖母。ウヤ(烏雅)氏。筆貼式(七品以下の文員)の霊寿の娘。母は妾の翁氏<ref>『烏雅氏族譜』</ref>。


道光帝より40歳年下であった。道光15年(1835年)、「琳貴人」に封ぜられた。同17年(1837年)、「秀常在」に降格された。翌18年(1838年)、琳貴人に復帰した。その後、[[愛新覚羅奕ケン|奕譞]](醇親王、のちの光緒帝の父)など4人の子供を産み、琳嬪、琳妃に進み、琳貴妃にいたった。
道光帝より40歳年下であった。道光15年(1835年)、「琳貴人」に封ぜられた。同17年(1837年)、「秀常在」に降格された。翌18年(1838年)、琳貴人に復帰した。その後、[[愛新覚羅奕|奕譞]](醇親王、のちの光緒帝の父)など4人の子供を産み、琳嬪、琳妃に進み、琳貴妃にいたった。


[[咸豊帝]]が即位すると、琳貴太妃に尊封された。また[[同治帝]]の即位後、琳皇貴太妃に尊封された。数え45歳で薨去し、慕陵の妃園寝に陪葬された。
[[咸豊帝]]が即位すると、琳貴太妃に尊封された。また[[同治帝]]の即位後、琳皇貴太妃に尊封された。数え45歳で薨去し、慕陵の妃園寝に陪葬された。


== 子女 ==
== 子女 ==
* [[愛新覚羅奕ケン|奕譞]](醇親王)
* [[愛新覚羅奕|奕譞]](醇親王)
* 寿荘固倫公主
* 寿荘固倫公主
* 奕詥(鍾親王)
* 奕詥(鍾親王)

2020年7月24日 (金) 07:05時点における版

荘順皇貴妃(そうじゅんこうきひ、道光2年(1822年) - 同治5年(1866年))は、の第8代皇帝道光帝の側室で、第11代皇帝光緒帝の祖母。ウヤ(烏雅)氏。筆貼式(七品以下の文員)の霊寿の娘。母は妾の翁氏[1]

道光帝より40歳年下であった。道光15年(1835年)、「琳貴人」に封ぜられた。同17年(1837年)、「秀常在」に降格された。翌18年(1838年)、琳貴人に復帰した。その後、奕譞(醇親王、のちの光緒帝の父)など4人の子供を産み、琳嬪、琳妃に進み、琳貴妃にいたった。

咸豊帝が即位すると、琳貴太妃に尊封された。また同治帝の即位後、琳皇貴太妃に尊封された。数え45歳で薨去し、慕陵の妃園寝に陪葬された。

子女

  • 奕譞(醇親王)
  • 寿荘固倫公主
  • 奕詥(鍾親王)
  • 奕譓(孚郡王)

脚注

  1. ^ 『烏雅氏族譜』

参考文献