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「銭応溥」の版間の差分

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'''銭 応溥'''(せん おうふ、''Qian Yingpu''、[[1824年]] - [[1902年]])、字は'''子密'''。[[清]]末の[[洋務運動|洋務派]]官僚。
'''銭 応溥'''(せん おうふ、''Qian Yingpu''、[[1824年]] - [[1902年]])、字は'''子密'''。[[清]]末の[[洋務運動|洋務派]]官僚。


[[浙江省]][[嘉興市|嘉興]]出身。[[1849年]]、[[貢生|抜貢生]]となった。[[1850年]]、七品小京官となり、[[吏部]]に入り、さらに軍機章京となった。[[咸豊]]年間に[[太平天国]]の支配下にあった[[安慶市|安慶]]の攻略作戦を行っていた[[曽国藩]]の幕府に入り、上奏文の起草を担当した。[[1872年]]、曽国藩が[[両江総督]]在任中に死去すると、[[軍機処]]に戻り、ここでも文章の才能を[[愛新覚羅奕訢|恭親王奕訢]]・[[愛新覚羅奕ケン|醇親王奕譞]]から評価された。[[1895年]]、礼部左侍郎に[[軍機大臣]]上行走を兼任した。[[1896年]]に左都御史に遷り、[[1897年]]に工部尚書に転じた。[[1899年]]、引退。死後、恭勤の[[諡号]]を贈られた。
[[浙江省]][[嘉興市|嘉興]]出身。[[1849年]]、[[貢生|抜貢生]]となった。[[1850年]]、七品小京官となり、[[吏部]]に入り、さらに軍機章京となった。[[咸豊]]年間に[[太平天国]]の支配下にあった[[安慶市|安慶]]の攻略作戦を行っていた[[曽国藩]]の幕府に入り、上奏文の起草を担当した。[[1872年]]、曽国藩が[[両江総督]]在任中に死去すると、[[軍機処]]に戻り、ここでも文章の才能を[[愛新覚羅奕訢|恭親王奕訢]]・[[愛新覚羅奕|醇親王奕譞]]から評価された。[[1895年]]、礼部左侍郎に[[軍機大臣]]上行走を兼任した。[[1896年]]に左都御史に遷り、[[1897年]]に工部尚書に転じた。[[1899年]]、引退。死後、恭勤の[[諡号]]を贈られた。


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2020年7月24日 (金) 07:05時点における版

銭 応溥(せん おうふ、Qian Yingpu1824年 - 1902年)、字は子密末の洋務派官僚。

浙江省嘉興出身。1849年抜貢生となった。1850年、七品小京官となり、吏部に入り、さらに軍機章京となった。咸豊年間に太平天国の支配下にあった安慶の攻略作戦を行っていた曽国藩の幕府に入り、上奏文の起草を担当した。1872年、曽国藩が両江総督在任中に死去すると、軍機処に戻り、ここでも文章の才能を恭親王奕訢醇親王奕譞から評価された。1895年、礼部左侍郎に軍機大臣上行走を兼任した。1896年に左都御史に遷り、1897年に工部尚書に転じた。1899年、引退。死後、恭勤の諡号を贈られた。

先代
許應騤
都察院漢左都御史
1896-1897
次代
廖寿恒
先代
許応騤
工部漢尚書
1897-1899
次代
徐樹銘