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[[1887年]](明治20年)、息子元孝の教育環境も考慮に入れて上京、[[神田東松下町]]に翠松学舎(すいしょうがくしゃ)を開校して{{sfn|磯部 2008|p=796}}、現在の三輪田学園の基礎を築いた{{sfn|磯部 2008|p=796}}。しかし、[[1890年]](明治23年)に元孝は病没し{{sfn|磯部 2008|p=795}}、[[1893年]](明治26年)に明倫学舎の教え子であった山下富五郎(後に三輪田元道と改名)を養子とした。同年2月、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]講師として文学を担当し、同9月には[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京府高等女学校]]にて漢文と作文の授業を担当し、10年以上教鞭をとることとなった{{sfn|磯部 2008|p=795}}{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。


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2020年7月24日 (金) 06:51時点における版

三輪田真佐子
生誕 (1843-01-30) 1843年1月30日[1]
京都府京都市[1]
死没 (1927-05-03) 1927年5月3日(84歳没)[1]
職業 教育者
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三輪田 真佐子(みわた / みわだ まさこ、1843年1月30日天保14年1月1日) - 1927年昭和2年)5月3日)は、明治から昭和にかけての教育者[1]京都府京都市生まれ[1]三輪田学園中学校・高等学校の創立者である。

生涯

伊予松山藩漢学者であった宇田淵・瀧野夫妻の一人娘として京都に生まれ[2]津山藩陽明学者・中條侍郎の養女となる[3]1855年安政2年)、12歳の時に実父の師であった梁川星厳とその夫人の紅蘭に就き、漢学詩文、書画を学んだ[4][1][5]。また、和歌を高橋武之に学び、自らを梅野女史と称した[1]。一方で少女期より、南桑田郡馬路村郷士に乞われて同村の私塾「典学舎」で教えていた養父・侍郎の代講も行うようになり[6]1867年慶応3年)から1869年明治2年)までは、父の淵と親交があった岩倉具視の内殿侍講として、岩倉家の子女への教授を務めている[1][4][6]

1869年(明治2年)、伊予松山藩士で大学少亟であった三輪田元綱と結婚ののち、東京に移る[4]。当時、元綱41歳、真佐子26歳[4]。4人の子をもうけたが、3人は夭折した[4]。1人は息子の元孝で、1872年(明治5年)4月9日に生まれている[4]

1878年(明治11年)、元綱とともに松山に赴くが、翌1879年(明治12年)に夫と死別した[7][1][8]。周囲からは再婚を勧められたものの、自らの学問の蓄積に自信のあった真佐子は、松山に私塾明倫学舎を開校した[7][1][8]。丁寧な指導は高い評価を受け、1884年(明治17年)には愛媛県師範学校附属小学校女教場取締となり、師範学校で漢学を教えた[1][8]

1887年(明治20年)、息子元孝の教育環境も考慮に入れて上京、神田東松下町に翠松学舎(すいしょうがくしゃ)を開校して[7]、現在の三輪田学園の基礎を築いた[7]。しかし、1890年(明治23年)に元孝は病没し[4]1893年(明治26年)に明倫学舎の教え子であった山下富五郎(後に三輪田元道と改名)を養子とした。同年2月、東京音楽学校講師として文学を担当し、同9月には東京府高等女学校にて漢文と作文の授業を担当し、10年以上教鞭をとることとなった[4][1]

1901年(明治34年)、日本女子大学校の設立に際して、同校の漢学教授を拝命した[1]。また同年に、鉱毒地救済婦人会の発起人の一人として名を連ねている[1]1902年(明治35年)、東京麹町に三輪田女学校(後に三輪田高等女学校、現在の三輪田学園中学校・高等学校)を創立して校長に就任し、女子の徳育を説く女子教育を推進した[1][8]儒教を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、著書において良妻賢母教育を提唱した[6]。同じ頃には、愛国婦人会日本弘道会大日本婦人教育会などでの活動でも名を知られている[1]

1912年(明治45年)、女流教育者への初めての叙勲として勲六等宝冠章を受章した[1][4]1927年昭和2年)4月1日には勲五等瑞宝章を受章した[1][9]。同年5月、85歳で死没。

著作

真佐子の著作

  • 『女子教育論』[1]
  • 『女子の本分』(1894年(明治27年))[1][8]
  • 『女子修身書』[1]
  • 『新家庭訓』[1]
  • 『女子の務め』(1905年(明治38年))[8]

息子元道の編集

  • 『梅野女史詩文集』[1]
  • 『真佐子集』[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 日本女性人名辞典, p. 1030.
  2. ^ 磯部 2008, pp. 794–795.
  3. ^ 『南桑田郡誌』p336(京都府教育会南桑田郡部会, 1924)
  4. ^ a b c d e f g h i 磯部 2008, p. 795.
  5. ^ 近現代日本女性人名辞典, p. 339.
  6. ^ a b c 人間の記録167 三輪田真佐子 日本図書センター、2005
  7. ^ a b c d 磯部 2008, p. 796.
  8. ^ a b c d e f 近現代日本女性人名辞典, p. 340.
  9. ^ 『官報』第76号「叙任及辞令」1927年4月4日。

参考文献

  • 芳賀登、一番ヶ瀬康子、中嶌邦、祖田浩一 編『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年。 
  • 近現代日本女性人名辞典編集委員会 編『近現代日本女性人名辞典』ドメス出版、2001年。 
  • 磯部香「女子教育者 三輪田眞佐子における「家庭」言説の受容 -明治期の婦人雑誌『女鑑』を対象とした分析から-」『日本家政学会誌』第59巻第10号、日本家政学会、2008年、793-803頁。 

外部リンク