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[[1878年]](明治11年)、元綱とともに[[松山市|松山]]に赴くが、翌[[1879年]](明治12年)に夫と死別した{{sfn|磯部 2008|p=796}}{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}{{sfn|近現代日本女性人名辞典|p=340}}。周囲からは再婚を勧められたものの、自らの学問の蓄積に自信のあった真佐子は、松山に[[私塾]]明倫学舎を開校した{{sfn|磯部 2008|p=796}}{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}{{sfn|近現代日本女性人名辞典|p=340}}。丁寧な指導は高い評価を受け、[[1884年]](明治17年)には[[愛媛大学教育学部附属小学校|愛媛県師範学校附属小学校]]女教場取締となり、師範学校で漢学を教えた{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}{{sfn|近現代日本女性人名辞典|p=340}}。 |
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[[1887年]](明治20年)、息子元孝の教育環境も考慮に入れて上京、[[神田東松下町]]に翠松学舎(すいしょうがくしゃ)を開校して{{sfn|磯部 2008|p=796}}、現在の三輪田学園の基礎を築いた{{sfn|磯部 2008|p=796}}。しかし、[[1890年]](明治23年)に元孝は病没し{{sfn|磯部 2008|p=795}}、[[1893年]](明治26年)に明倫学舎の教え子であった山下富五郎(後に三輪田元道と改名)を養子とした。同年2月、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]講師として文学を担当し、同9月には[[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|東京府高等女学校]]にて漢文と作文の授業を担当し、10年以上教鞭をとることとなった{{sfn|磯部 2008|p=795}}{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。 |
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[[1901年]](明治34年)、[[日本女子大学|日本女子大学校]]の設立に際して、同校の漢学教授を拝命した{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。また同年に、鉱毒地救済婦人会の発起人の一人として名を連ねている{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。[[1902年]](明治35年)、東京[[麹町]]に三輪田女学校(後に三輪田高等女学校、現在の[[三輪田学園中学校・高等学校]])を創立して校長に就任し、女子の徳育を説く女子教育を推進した{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}{{sfn|近現代日本女性人名辞典|p=340}}。[[儒教]]を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、著書において良妻賢母教育を提唱した<ref name="nihon"/>。同じ頃には、[[愛国婦人会]]、[[日本弘道会]]、[[大日本婦人教育会]]などでの活動でも名を知られている{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。 |
[[1901年]](明治34年)、[[日本女子大学|日本女子大学校]]の設立に際して、同校の漢学教授を拝命した{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。また同年に、鉱毒地救済婦人会の発起人の一人として名を連ねている{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。[[1902年]](明治35年)、東京[[麹町]]に三輪田女学校(後に三輪田高等女学校、現在の[[三輪田学園中学校・高等学校]])を創立して校長に就任し、女子の徳育を説く女子教育を推進した{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}{{sfn|近現代日本女性人名辞典|p=340}}。[[儒教]]を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、著書において良妻賢母教育を提唱した<ref name="nihon"/>。同じ頃には、[[愛国婦人会]]、[[日本弘道会]]、[[大日本婦人教育会]]などでの活動でも名を知られている{{sfn|日本女性人名辞典|p=1030}}。 |
2020年7月24日 (金) 06:51時点における版
三輪田真佐子 | |
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生誕 |
1843年1月30日[1] 京都府京都市[1] |
死没 | 1927年5月3日(84歳没)[1] |
職業 | 教育者 |
三輪田 真佐子(みわた / みわだ まさこ、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1927年(昭和2年)5月3日)は、明治から昭和にかけての教育者[1]。京都府京都市生まれ[1]。三輪田学園中学校・高等学校の創立者である。
生涯
伊予松山藩の漢学者であった宇田淵・瀧野夫妻の一人娘として京都に生まれ[2]、津山藩の陽明学者・中條侍郎の養女となる[3]。1855年(安政2年)、12歳の時に実父の師であった梁川星厳とその夫人の紅蘭に就き、漢学詩文、書画を学んだ[4][1][5]。また、和歌を高橋武之に学び、自らを梅野女史と称した[1]。一方で少女期より、南桑田郡馬路村の郷士に乞われて同村の私塾「典学舎」で教えていた養父・侍郎の代講も行うようになり[6]、1867年(慶応3年)から1869年(明治2年)までは、父の淵と親交があった岩倉具視の内殿侍講として、岩倉家の子女への教授を務めている[1][4][6]。
1869年(明治2年)、伊予松山藩士で大学少亟であった三輪田元綱と結婚ののち、東京に移る[4]。当時、元綱41歳、真佐子26歳[4]。4人の子をもうけたが、3人は夭折した[4]。1人は息子の元孝で、1872年(明治5年)4月9日に生まれている[4]。
1878年(明治11年)、元綱とともに松山に赴くが、翌1879年(明治12年)に夫と死別した[7][1][8]。周囲からは再婚を勧められたものの、自らの学問の蓄積に自信のあった真佐子は、松山に私塾明倫学舎を開校した[7][1][8]。丁寧な指導は高い評価を受け、1884年(明治17年)には愛媛県師範学校附属小学校女教場取締となり、師範学校で漢学を教えた[1][8]。
1887年(明治20年)、息子元孝の教育環境も考慮に入れて上京、神田東松下町に翠松学舎(すいしょうがくしゃ)を開校して[7]、現在の三輪田学園の基礎を築いた[7]。しかし、1890年(明治23年)に元孝は病没し[4]、1893年(明治26年)に明倫学舎の教え子であった山下富五郎(後に三輪田元道と改名)を養子とした。同年2月、東京音楽学校講師として文学を担当し、同9月には東京府高等女学校にて漢文と作文の授業を担当し、10年以上教鞭をとることとなった[4][1]。
1901年(明治34年)、日本女子大学校の設立に際して、同校の漢学教授を拝命した[1]。また同年に、鉱毒地救済婦人会の発起人の一人として名を連ねている[1]。1902年(明治35年)、東京麹町に三輪田女学校(後に三輪田高等女学校、現在の三輪田学園中学校・高等学校)を創立して校長に就任し、女子の徳育を説く女子教育を推進した[1][8]。儒教を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、著書において良妻賢母教育を提唱した[6]。同じ頃には、愛国婦人会、日本弘道会、大日本婦人教育会などでの活動でも名を知られている[1]。
1912年(明治45年)、女流教育者への初めての叙勲として勲六等宝冠章を受章した[1][4]。1927年(昭和2年)4月1日には勲五等瑞宝章を受章した[1][9]。同年5月、85歳で死没。
著作
真佐子の著作
息子元道の編集
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 日本女性人名辞典, p. 1030.
- ^ 磯部 2008, pp. 794–795.
- ^ 『南桑田郡誌』p336(京都府教育会南桑田郡部会, 1924)
- ^ a b c d e f g h i 磯部 2008, p. 795.
- ^ 近現代日本女性人名辞典, p. 339.
- ^ a b c 人間の記録167 三輪田真佐子 日本図書センター、2005
- ^ a b c d 磯部 2008, p. 796.
- ^ a b c d e f 近現代日本女性人名辞典, p. 340.
- ^ 『官報』第76号「叙任及辞令」1927年4月4日。
参考文献
- 芳賀登、一番ヶ瀬康子、中嶌邦、祖田浩一 編『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年。
- 近現代日本女性人名辞典編集委員会 編『近現代日本女性人名辞典』ドメス出版、2001年。
- 磯部香「女子教育者 三輪田眞佐子における「家庭」言説の受容 -明治期の婦人雑誌『女鑑』を対象とした分析から-」『日本家政学会誌』第59巻第10号、日本家政学会、2008年、793-803頁。