「小橋三四子」の版間の差分
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1883年(明治16年)、[[静岡県]]で小橋光次郎の次女として生まれた。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・[[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|東京都立白鷗高等学校]])に入学した。 |
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[[1901年]](明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・[[日本女子大学]])国文学部に第一回生として入学した。この頃[[キリスト教]]に入信した。 |
[[1901年]](明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・[[日本女子大学]])国文学部に第一回生として入学した。この頃[[キリスト教]]に入信した。 |
2020年7月24日 (金) 06:50時点における版
小橋 三四子(こばし みよこ、1883年(明治16年)7月23日[要検証 ] - 1922年(大正11年)5月11日[要検証 ])は、日本のジャーナリストである。
来歴
1883年(明治16年)、静岡県で小橋光次郎の次女として生まれた。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)に入学した。
1901年(明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部に第一回生として入学した。この頃キリスト教に入信した。
1904年(明治37年)、日本女子大学校を卒業した。同校の卒業生組織として桜楓会が創設され、同校初代校長の成瀬仁蔵の要請に応えて橋本八重子(柳八重子)とともに同窓会誌 『家庭週報』 『家庭』 の編集人を務めた。その後、日本YWCAの機関紙 『明治の女子』 や、キリスト教婦人雑誌 『新女界』 (編集・海老名弾正、主筆・安井てつ)の編集に参加した。
1914年(大正3年)4月、読売新聞の記者として日本初の新聞婦人欄(現在の家庭面)である 『よみうり婦人付録』 の主任編集者となった。
1915年(大正4年)11月、独立して『婦人週報』 を創刊した (1919年7月11日まで編集人)。女性に対する職業的訓練の必要性、女性の地位向上のための男性の覚醒を説いた。女性実業家・広岡浅子も執筆に協力した。また、婦人記者倶楽部づくりに奔走し、日本基督教婦人矯風会の公娼全廃運動にも参加した。
1918年(大正7年)、婦人週報社より広岡浅子の自伝 『一週一信[注釈 1]』 を発行した。
1919年(大正8年)に渡米し、コロンビア大学で婦人問題や新聞学などを学ぶ。
1921年(大正10年)の帰国後、主婦之友社(現・主婦の友社)に入社し、『サンガー夫人会見記』を記した。
1922年(大正11年)5月11日、享年38歳にて急逝した。墓所は静岡市の長源院にある。