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「学校騒動」の版間の差分

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*[[栃木県立佐野女子高等学校|阿蘇郡立佐野高等女学校]] - 1920年
*[[栃木県立佐野女子高等学校|阿蘇郡立佐野高等女学校]] - 1920年
*[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京府立第一高等女学校]] -
*[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京府立第一高等女学校]] -
*[[東京都立竹早高等学校|東京府立第二高等女学校]] - 1928年11月、4・5年生約50名が登校せず<ref name="東京朝日" />。 
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*[[東京都立忍岡高等学校|東京市立第一実科高等女学校]] - 1921年4月、保護者による校長留任運動<ref name="読売" />。
*[[東京都立忍岡高等学校|東京市立第一実科高等女学校]] - 1921年4月、保護者による校長留任運動<ref name="読売" />。

2020年7月24日 (金) 06:49時点における版

学校騒動(がっこうそうどう)とは学校における騒動紛争である。学校紛擾とも言う。

概要

様々な原因で発生し目的・要求内容も様々である。典型的な例は存在しない。教育方法・管理教育方針、設備授業料等の教育環境、教員人事、学生の処分、などへの学生生徒児童の不満。学生生徒が学生自治を求めたり政治問題への意識、管理者と教職員の紛争、教職員内の紛争、などから発生した。おおまかに学校側管理者教職員内部の騒動、学校と外部との騒動、学校側管理者・教職員と学生生徒児童との騒動、学生生徒児童間の騒動・紛争に分けられる。手段も様々であり同盟休校(一部施設を占拠篭城させることも含む)がとられた事が多い。 学生運動に接続することも多かった。戦前に使われたことが多い用語で、戦後学園紛争に近い。

祭り感覚で行われたり参加した事も多かった。高野陽太郎は戦前の日本人が必ずしも集団主義的ではなく個人主義的面も多くあった例として学校紛擾を挙げている。

要求内容

学校騒動の発端は複合する場合も多く、要求内容が複数あるのが多かった。以下の分類の大部分は伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』「第5章 学校騒動」に依った。

学生の自治要求・管理主義への反発・学生処分への反発

学生自治組織・弁論新聞文芸への干渉への反発。社会科学研究の自由の要求。校友会学友会学生寮応援団運動部制度・選手制度などへの自治・改革要求。など学校生活全般への管理統制への反発。

また、学生の処分への反発で、左傾への処分、不穏当記事、異性問題、カンニング暴力事件などの処分へ反発した。

教育環境や学校経営への不満

教育と環境への不満。教授陣、カリキュラム教育方法施設・設備の不備、卒業資格問題、実態に反した誇大宣伝、万年ノート、出席制度、資格指定校認定を求めて、試験の難解さ、伝染病のため試験延期、教員と生徒との醜関係、自校の大学昇格、

また、学校経営者の営利主義への反発で、授業料値上げ、寄付金、各種手数料収賄による進級、教員による病院経営に没頭、などの原因がある。

管理者・教職員層での内紛

経営の主導権をめぐる管理者層の内紛、学閥に基づく教員層の内部対立、管理者に不満を持つ教員層の反抗。

また、教員の人事異動や処分への反発で学生が不満を持ち撤回を求めたりや留任運動を起こした。

学外の政治問題

軍事教練への反対・抗議運動、滝川事件への抗議、学内への警察権進入への抗議、などがある。

学校と外部の対立

東京高商と文部省の対立、経営母体と大学の対立、などの決着を求めて

学生間の対立(個人的対立を含む)
その他

早慶戦入場券の配分、野球部内の紛擾の解決

手順

手順は騒動毎に差異があり典型は存在せず一概には言えない。以下、伊藤がまとめた代表的な一例を述べる。一部の学生の不満から全校による学生大会を開催し要求事項の提出。代表者による学校当局との交渉するが多くは決裂し同盟休校に突入。学生寮校舎に占拠・籠城する。あるいは校外に本部を設ける。昭和期には組織が細かく分化し1932年拓殖大では「各クラスより実行委員をあげ会計、警備、炊事、交渉、衛生の各係を定め…」1932年高松高商では「籠城組は統制部、父兄部、新聞係、衛生係、会計係等の部署を定め…」ている。騒動では学校側とともに宣伝合戦を繰り広げた。檄文も飛び交った。大規模校では「管理者卒業生父母、教員、学生らの間の複雑な合従連衡がみられた」。対して学校側では臨時休校の措置をとり首謀者の処分をとるが収束しない場合が多く、調停者が出てくる。卒業生の著名人・有力者や地方の名士ら、果ては文部省が仲介に当った。長期化した場合には学生の中から「終息を望む意向が強く顕在化」した事も多かった[1]。事件後は首謀者らは処分される可能性が高かった。

また、太宰治の『学生群』では、手順は、授業を拒否しクラス会を決行し生徒大会実行委員を2名ずつ選挙。実行委員30名・級長30名・各部活動1名ずつ、で準備会を開く。生徒大会で決議文を作製し10人が交渉委員となり相手方に手交、決裂し休校が始まった。実行委員会(本部、最高幹部会)を設け綿密に打ち合わせる。クラス会での意見を本部に報告したり本部から指令が来た。教師も反ストライキ派の学生生徒を使い切り崩しを試みたり妨害したりした。

歴史

明治期に始まった。昭和初期にピークを迎え「学校騒動慢性化時代」と呼ばれた[2][3]

事例

教職員・管理者の内部対立の事例

※学校側教職員内部の対立にさらに学生生徒児童を巻き込んだ事例も含める。

学校と外部の対立の事例

教職員・管理者と学生生徒児童との対立の事例

旧制大学
  • 東京医学校 - 1875年11月入学した北里柴三郎が設立・主将をした結社の「同盟社」が演説会、出版、スポーツ大会、ストライキの指導、をした。
  • 東京帝国大学 - 1926年。1929年5月15日1000名で授業料値上げ反対など様々な要求を掲げ学生大会、乱闘、示威運動し散会[2]。1930年5月。1931年6月2回紛擾。1931年11月。1933年5月 - 7月。
  • 京都帝国大学 - 1926年、学友会改革の紛擾。1929年9月、紛擾。
  • 名古屋帝国大学 - 愛知県立医学校時代の1903年4月、教諭排斥盟休。1908年10月、[4]
  • 北海道帝国大学 - 1928年12月、校友会の文武会の自主化案提出後学生大会2000名盟休[2]
  • 九州帝国大学
  • 慶応義塾大学 - 1930年11月紛擾。1931年1月盟休。1931年6月紛擾。
  • 早稲田大学 - 東京専門学校時代には国木田独歩が1891年に学校改革と校長への不信のために同盟休校を行い、まもなく退学。1925年軍事教練反対[1]。1928年6月。1929年5月紛擾、学生大会・デモ[2]。1930年10月 - 11月、早慶戦の入場券配布が不公平として紛擾で学内自治運動へ。11月17日解決式。
  • 日本大学 - 1928年5月、予科生2000名が盟休。1930年5月 - 6月、2000名が盟休し警官隊と衝突[4]。1931年5月専門部歯科盟休、病院経営に没頭する教員へ反発[1]。1931年11月、芸術科盟休。1932年10月、専門部医科[1]。1933年2月。1939年6月、[4]。1939年10月、[5]
  • 東洋大学 - 1926年6月、入学案内での予告と異なるカリキュラム構成への不満から紛擾[1]
  • 中央大学 - 1933年、暴利を貪る食堂ボイコット[1]
  • 立教大学 - 1930年11月、野球部内が監督派・排斥派で対立し新聞記事に。学校側許可の上、各クラス委員連合協議会と学友会各部委員が合流し大会。学友会部長会議で収束へ[6]。1933年3月、[4]
  • 明治大学 - 1921年5月6月、費用を夜店を開き調達[4]。1930年11月 - 12月、校内雄弁大会から13条を要求し学生大会・デモ・暴行・同盟休校後に調停があり自治機関の確立他大体を認めさせた。[6]。1931年[1]。1932年11月、専門部盟休。1933年11月、予科生[4]
  • 青山学院大学 - 1925年、軍事教練反対[1]
  • 駒澤大学 - 1927年、専門部1年生盟休[4]。1937年5月、[4]
  • 立正大学 - 1930年5月、[4]
  • 専修大学 - 1928年12月、[5]
  • 拓殖大学 - 1932年5月、学校改革を叫び600名校内に篭城[4]
  • 国士舘大学 - 1934年6月、[5]
  • 大倉高等商業学校 - 1930年11月盟休[6]
  • 成城学園 - 1933年、[4]
  • 日本女子大学 - 1930年10月 - 11月、制度変更の発表に対し生徒は休講し考究の時間が欲しいと申し出て許可を得る[6]。総合大学計画廃棄発表に当局の不誠意に憤慨[4]等もあったが収束。
  • 東京女子大学
  • 東京音楽学校 - 1927年10月、[5]。1931年3月、紛擾[4]
  • 東京外国語大学 - 1908年12月、[5]。1932年6月盟休、[4]
  • 東北学院 - 1925年、
  • 新潟医大 - 1931年2月、
  • 名古屋医科大学 - 1931年6月、[4]
  • 同志社大学- 同志社英学校時代には1880年に徳富蘇峰が同盟休校を起こす。1928年12月、同志社有終館の失火を原因とした理事会総辞職とその後の再選により総長以外の理事が再選された事に学内での異議が噴出する。翌、1929年4月 - 5月、大学新聞が敷地買収に関し一部理事の醜事を摘発。理事会は連合教授会まで動かして新聞の背後にあるとした13教授を解職。25日に13教授が声明発表。26日各学部別学生大会を開催。27日目的貫徹まで授業ボイコットを決議。先輩の調停で5月8日散会[2]。1931年6月、予科盟休。 
  • 龍谷大学 - 1929年4月、
  • 大谷大学 - 1928年[1]
  • 京都府立医科大学 - 1924年、予科で学期末試験受験資格厳格化への反対[1]
  • 大阪商科大学 - 1932年2月、出席制度全廃を求めて[1]
  • 大阪外国語大学 - 1931年2月、出席点呼で代返したとして21名を謹慎処分した事に対し不満を持つ1・2年生が生徒大会後講堂に留まり盟休[6]
  • 関西大学- 1927年10月、理事排斥で1200名盟休[5]。1930年6月、[5]
  • 帝国美術学校(現武蔵野美術大学)-1935年、北れい吉校長と学生らの対立から盟休、北は多摩帝国美術学校(現多摩美術大学へ分離独立。
師範学校旧制専門学校
旧制高校
各種学校
旧制中等教育学校
旧制小学校
  • 北海道空知郡瀧川小学校 - 1909年1月、校舎移転問題から盟休。
  • 北海道小樽郡朝里小学校 - 1909年10月、学校増築・敷地買収[4]
  • 岩手県渋民尋常高等小学校 - 石川啄木代用教員として児童を扇動し同盟休校を起こす。
  • 山形県最上郡稲舟村角沢小学校 - 1927年2月、分教場を廃止しようとしたが通学距離が長くなり大雪も多く父兄が同盟休校させた[4]
  • 千葉県香取郡豊浦村小学校 - 校長が常に虐待するので高等科2年生が結束して盟休し夕方まで帰宅せず。父兄・村会議員は役所に転任を迫る[5]
  • 千葉県東葛飾郡船橋町立尋常高等小学校 - [5]
  • 東京府北豊島郡王子町立尋常高等小学校 - 1909年9月、尋常科6年47名中38名が授業時間の約束違いから同盟休校。数名が朝から要所で待ち受け登校させず稲荷山に集めた。2名を総代に選び校長と談判。
  • 東京府向島区梅若小学校 - 1936年1月、新設校のため通学区域の変更になるのを撤回要求する保護者が、児童約300名に盟休させた[5]
  • 東京府瀧野川町瀧野川小学校 - 1913年12月、校長の方針で学用品費が無意味に高価になり、また教諭の体罰もあり父兄の反感を買い紛擾が表面化。
  • 東京府日本橋区東京市立日本橋女子高等小学校 - 1933年5月、盟休し父兄会から校長に辞職勧告[4]
  • 東京府赤坂区青山小学校 - 1918年3月、1919年8月、[5]
  • 東京府下南多摩郡町田町小学校 - 1929年11月、先生が17名乱打したのが父兄の激昂を買い紛擾が起き13日から高等科男女42名が一人も登校せず同盟休校した[4]
  • 東京府多摩郡七生村平山尋常高等小学校 - 1933年4月[5]
  • 東京府八王子市外七生村小学校 - 1929年9月7日、高等科男女50名は2訓導の転任が校長の専断であると盟休[4]
  • 東京府東京市芝区神応小学校 - 1937年6月[4]
  • 神奈川県三浦郡南下浦小学校 - 1929年2月[4]
  • 神奈川県小田原町立第二小学校 - 校長反対運動から父兄会で盟休を決める。第一小、第三小も同調し休校[4]
  • 長野県小県郡神科小学校 - 不良教員8名退職で解決[5]
  • 静岡県庵原郡飯田村飯田尋常高等小学校 - 1926年7月、高等科1年男子43名が理科授業中声を上げ校外に出て帰宅。訓導の体刑から発生[5]
  • 奈良県郡山町立女子尋常高等小学校 - 新学年から不評判の訓導が受持ちとなり教授不熱心・女生徒の反感を買い高等科4年生は登校せず。父兄らも肩を持つ[4]

学生生徒児童間の対立の事例

旧制大学
旧制中等教育学校

関連作品

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』第5章学校騒動、玉川大学出版部、1999年。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 菊川忠雄『学生社会運動史』、中央公論社、1931年。 
  3. ^ 竹内洋「大学・インテリ・教養 第5回」NTT出版Webマガジン
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct 東京朝日新聞』、朝日新聞社 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd 読売新聞』、読売新聞社 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 文部省『思想調査資料』、文部省 
  7. ^ a b 佐藤秀夫『教育の文化史2学校の文化』、阿吽社、2005年。 
  8. ^ 日本経済新聞』、日本経済新聞社 
  9. ^ a b c d e f g h i 桑原三二『中等教育史研究第4集』、桑原三二。 
  10. ^ a b c 陸奥新報』、陸奥新報社。 
  11. ^ 『栃木県史』

参考文献

  • 菊川忠雄『学生社会運動史』中央公論社、1931年
  • 伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』「第5章 学校騒動」玉川大学出版局、1999年
  • 文部省『思想調査資料』

関連項目

外部リンク