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「平岡精二」の版間の差分

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== 人物 ==
== 人物 ==
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[[1931年]](昭和6年)[[8月13日]]、[[東京府]][[東京市]](現在の[[東京都]])に生まれる<ref name="tower" />。[[実業家]]であり[[シロフォン|木琴]][[演奏者|奏者]]、[[平岡凞]]こと初代平岡吟舟(1856年 - 1934年)の孫であり、凞の次男、二代目平岡吟舟(本名・平岡次郎)の次男である<ref name="kotobank" />。シロフォン奏者・[[平岡養一]](1907年 - 1981年)、フィギュアスケーター・[[平岡露子]](1913年 - 2012年)の兄妹は父のいとこであり、「養一の長男」<ref name="tower" />とするのは誤り<ref name="kotobank" />。[[東明柳舟 (初代)|初代東明柳舟]](本名・高橋楊子、1882年 - 1949年)は、凞の次女であり、精二からは伯母に当たる<ref name="kotobank" />。


幼少期、父から[[木琴]]を習い、[[第二次世界大戦]]後、[[青山学院高等部]]在学中の15歳のころ、[[村上一徳]](1913年 - 1963年)による「[[村上一徳とサーフライダーズ]]」に参加、プロとしてデビューする<ref name="kotobank" />。[[1951年]](昭和26年)、[[ゲイ・セプテット]]に加入<ref name="kotobank" />、[[1954年]](昭和29年)、[[青山学院大学]]経済学部を卒業し<ref name="kotobank" />、[[ヴィブラフォン]]奏者として一本立ちする<ref name="tower" />。[[1956年]](昭和31年)[[6月]]、「平岡精二カルテット」を結成、その後、「平岡精二シックステット」に発展、「平岡精二クインテット」を結成する<ref name="kotobank" /><ref name="tower" />。渋みのある音色、抑揚の激しい歌で人気を博す。[[トランペット]]、[[アルトサックス]]、[[マリンバ]]なども演奏する。[[1958年]](昭和33年)、[[ペギー葉山]]に『[[爪 (ペギー葉山の曲)|爪]]』を提供(本作は[[1964年]](昭和39年)に再録音された)。[[1964年]](昭和39年)、[[学校法人青山学院|青山学院]]を舞台とした[[ペギー葉山]]の代表曲『[[学生時代]]』を作詞・作曲・編曲、「平岡精二クインテット」が演奏した。[[山下毅雄]]の映画音楽等で[[マリンバ]]を多く演奏したのが、平岡である<ref name="kotobank" />。山下と出逢うきっかけは、親戚の養一の家の近くに山下が住んでいたことだという<ref name="kotobank" />。
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2020年7月23日 (木) 09:57時点における版

平岡 精二
生誕 1931年8月13日
出身地 日本の旗 日本 東京府東京市
死没 (1990-03-22) 1990年3月22日(58歳没)
学歴 青山学院大学経済学部卒業
ジャンル ジャズ
職業 ミュージシャン
作詞家
作曲家
編曲家
担当楽器 木琴
トランペット
アルトサックス
マリンバ
ヴィブラフォン
活動期間 1946年 - 1990年
共同作業者 平岡精二クインテット
ペギー葉山
山下毅雄
二代目平岡吟舟
村上一徳

平岡 精二(ひらおか せいじ、1931年8月13日 - 1990年3月22日)は、日本のジャズミュージシャン作詞家作曲家編曲家である[1][2]日本作曲家協会会員[1]

人物

1931年(昭和6年)8月13日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[2]実業家であり木琴奏者平岡凞こと初代平岡吟舟(1856年 - 1934年)の孫であり、凞の次男、二代目平岡吟舟(本名・平岡次郎)の次男である[1]。シロフォン奏者・平岡養一(1907年 - 1981年)、フィギュアスケーター・平岡露子(1913年 - 2012年)の兄妹は父のいとこであり、「養一の長男」[2]とするのは誤り[1]初代東明柳舟(本名・高橋楊子、1882年 - 1949年)は、凞の次女であり、精二からは伯母に当たる[1]

幼少期、父から木琴を習い、第二次世界大戦後、青山学院高等部在学中の15歳のころ、村上一徳(1913年 - 1963年)による「村上一徳とサーフライダーズ」に参加、プロとしてデビューする[1]1951年(昭和26年)、ゲイ・セプテットに加入[1]1954年(昭和29年)、青山学院大学経済学部を卒業し[1]ヴィブラフォン奏者として一本立ちする[2]1956年(昭和31年)6月、「平岡精二カルテット」を結成、その後、「平岡精二シックステット」に発展、「平岡精二クインテット」を結成する[1][2]。渋みのある音色、抑揚の激しい歌で人気を博す。トランペットアルトサックスマリンバなども演奏する。1958年(昭和33年)、ペギー葉山に『』を提供(本作は1964年(昭和39年)に再録音された)。1964年(昭和39年)、青山学院を舞台としたペギー葉山の代表曲『学生時代』を作詞・作曲・編曲、「平岡精二クインテット」が演奏した。山下毅雄の映画音楽等でマリンバを多く演奏したのが、平岡である[1]。山下と出逢うきっかけは、親戚の養一の家の近くに山下が住んでいたことだという[1]

1990年(平成2年)3月22日、死去[1][2]。満58歳歿。

ディスコグラフィ

フィルモグラフィ

クレジットは「音楽」である[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 平岡精二コトバンク、2015年2月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 平岡精二タワーレコード、2015年2月20日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク