「劉衍 (後漢)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Katzenfrucht (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[明帝 (漢)|明帝]]の子として生まれた。[[72年]]([[永平 (漢)|永平]]15年)、下邳王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、[[章帝 (漢)|章帝]]が即位すると、常に側近にあった。[[建初 (漢)|建初]]初年に加冠し、[[下 |
[[明帝 (漢)|明帝]]の子として生まれた。[[72年]]([[永平 (漢)|永平]]15年)、下邳王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、[[章帝 (漢)|章帝]]が即位すると、常に側近にあった。[[建初 (漢)|建初]]初年に加冠し、[[下邳郡|下邳国]]の師傅以下の属官は金帛を賜った。[[79年]](建初4年)、[[臨淮郡]]と[[九江郡]]の[[鍾離]]・[[当塗県|当塗]]・[[定遠県|東城]]・[[和県|歴陽]]・[[全椒県|全椒]]の合わせて17県が下邳国に編入された。[[88年]]([[章和 (漢)|章和]]2年)3月<ref>『[[後漢書]]』和帝紀</ref>、下邳国に下向した。後に劉衍は病のため意識不明に陥ったが、太子の劉卬に罪があって廃位されたため、夫人たちが自分の生んだ子を後嗣に立てようと、相次いで上書した。[[和帝 (漢)|和帝]]は彭城王[[劉恭 (彭城王)|劉恭]]を下邳に派遣して嫡庶を正し、劉衍の子の劉成を立てて太子とした。 |
||
[[125年]]([[延光]]4年)2月乙亥<ref>『後漢書』安帝紀</ref>、劉衍は死去した。 |
[[125年]]([[延光]]4年)2月乙亥<ref>『後漢書』安帝紀</ref>、劉衍は死去した。 |
2020年7月23日 (木) 03:46時点における最新版
劉衍(りゅう えん、生年不詳 - 125年)は、後漢の皇族。下邳恵王。
経歴
[編集]明帝の子として生まれた。72年(永平15年)、下邳王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、章帝が即位すると、常に側近にあった。建初初年に加冠し、下邳国の師傅以下の属官は金帛を賜った。79年(建初4年)、臨淮郡と九江郡の鍾離・当塗・東城・歴陽・全椒の合わせて17県が下邳国に編入された。88年(章和2年)3月[1]、下邳国に下向した。後に劉衍は病のため意識不明に陥ったが、太子の劉卬に罪があって廃位されたため、夫人たちが自分の生んだ子を後嗣に立てようと、相次いで上書した。和帝は彭城王劉恭を下邳に派遣して嫡庶を正し、劉衍の子の劉成を立てて太子とした。
子女
[編集]- 劉卬(下邳王の太子であったが、罪あって廃位された)
- 劉成(後嗣、下邳貞王)
126年(永建元年)、劉成の兄2人と劉衍の孫2人が列侯となった。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『後漢書』巻50 列伝第40