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'''李 鄒'''(り しゅう、生没年不詳)は、中国[[後漢]]末期の武将。初めは呂布に仕え、のち曹操に降った。徐晃伝に記載がある。
'''李 鄒'''(り しゅう、生没年不詳)は、中国[[後漢]]末期の武将。初めは呂布に仕え、のち曹操に降った。徐晃伝に記載がある。


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[[呂布]]配下だった李鄒は、[[建安 (漢)|建安]][[198年|3年]]([[198年]])に[[曹操]]が呂布征伐に赴き、[[下郡|下邳]]に呂布を攻めた際、曹操の別動隊を率いた[[徐晃]]に、[[趙庶]]とともに降った。そののちの事績は伝わっていない。


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2020年7月23日 (木) 03:45時点における版

李 鄒(り しゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。初めは呂布に仕え、のち曹操に降った。徐晃伝に記載がある。

呂布配下だった李鄒は、建安3年198年)に曹操が呂布征伐に赴き、下邳に呂布を攻めた際、曹操の別動隊を率いた徐晃に、趙庶とともに降った。そののちの事績は伝わっていない。