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[[王湛]]の子として生まれた。欲が少なく、言葉を飾らない性格で、若くして名を知られた。[[王衍 (西晋)|王衍]]は王承を高く評価して、[[楽広]]と並ぶ人物とみなした。[[301年]]([[永寧 (晋)|永寧]]元年)、王承は常山王[[司馬乂]]の下で驃騎参軍となった。[[八王の乱]]が激化すると、王承は難を避けるために南下した。東海王[[司馬越]]の下で司空従事中郎となった。[[306年]]([[光熙]]元年)、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]を[[長安]]から[[洛陽]]に迎えるのに参与し、藍田県侯の[[爵位]]を受けた。尚書郎とされたが、就任しなかった。[[307年]]([[永嘉 (晋)|永嘉]]元年)、司馬越が[[許昌]]に出向すると、王承はその下で記室参軍となった。司馬越に重んじられ、その府にあること数年、母が老齢であることを理由に離職を求めたが、許可されなかった。長らくを経て、[[東海郡]][[太守]]として出向した。細事にこだわらない寛容な統治をおこない、池の魚を盗んだ小吏を赦した挿話で知られた。
[[王湛]]の子として生まれた。欲が少なく、言葉を飾らない性格で、若くして名を知られた。[[王衍 (西晋)|王衍]]は王承を高く評価して、[[楽広]]と並ぶ人物とみなした。[[301年]]([[永寧 (晋)|永寧]]元年)、王承は常山王[[司馬乂]]の下で驃騎参軍となった。[[八王の乱]]が激化すると、王承は難を避けるために南下した。東海王[[司馬越]]の下で司空従事中郎となった。[[306年]]([[光熙]]元年)、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]を[[長安]]から[[洛陽]]に迎えるのに参与し、藍田県侯の[[爵位]]を受けた。尚書郎とされたが、就任しなかった。[[307年]]([[永嘉 (晋)|永嘉]]元年)、司馬越が[[許昌]]に出向すると、王承はその下で記室参軍となった。司馬越に重んじられ、その府にあること数年、母が老齢であることを理由に離職を求めたが、許可されなかった。長らくを経て、[[東海郡]][[太守]]として出向した。細事にこだわらない寛容な統治をおこない、池の魚を盗んだ小吏を赦した挿話で知られた。


ほどなく官を去り、[[長江]]を渡って[[建康 (都城)|建業]]に入ると、琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]の下で鎮東府従事中郎となり、礼遇を受けた。名望においては、[[王導]]・[[周顗]]・[[ユ亮|庾亮]]ら南渡の名臣たちを上回って、中興第一とされた。46歳で死去した。
ほどなく官を去り、[[長江]]を渡って[[建康 (都城)|建業]]に入ると、琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]の下で鎮東府従事中郎となり、礼遇を受けた。名望においては、[[王導]]・[[周顗]]・[[庾亮]]ら南渡の名臣たちを上回って、中興第一とされた。46歳で死去した。


子の[[王述]]が後を嗣いだ。
子の[[王述]]が後を嗣いだ。

2020年7月23日 (木) 03:40時点における版

王承(おう しょう、生没年不詳)は、中国晋代官僚・名望家。は安期。本貫太原郡晋陽県

経歴

王湛の子として生まれた。欲が少なく、言葉を飾らない性格で、若くして名を知られた。王衍は王承を高く評価して、楽広と並ぶ人物とみなした。301年永寧元年)、王承は常山王司馬乂の下で驃騎参軍となった。八王の乱が激化すると、王承は難を避けるために南下した。東海王司馬越の下で司空従事中郎となった。306年光熙元年)、恵帝長安から洛陽に迎えるのに参与し、藍田県侯の爵位を受けた。尚書郎とされたが、就任しなかった。307年永嘉元年)、司馬越が許昌に出向すると、王承はその下で記室参軍となった。司馬越に重んじられ、その府にあること数年、母が老齢であることを理由に離職を求めたが、許可されなかった。長らくを経て、東海郡太守として出向した。細事にこだわらない寛容な統治をおこない、池の魚を盗んだ小吏を赦した挿話で知られた。

ほどなく官を去り、長江を渡って建業に入ると、琅邪王司馬睿の下で鎮東府従事中郎となり、礼遇を受けた。名望においては、王導周顗庾亮ら南渡の名臣たちを上回って、中興第一とされた。46歳で死去した。

子の王述が後を嗣いだ。

伝記資料