「玄言詩」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m 出典の明記 |
m Bot作業依頼: 庾氏各記事の正式な用字への改名に伴うリンク修正依頼 (庾亮) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始]]年間、老荘思想に基づく学問([[玄学]])やそれを主題と哲学談義([[清談]])が、[[何晏]]らにより始められ、魏[[西晋|晋]]交替期の[[竹林の七賢]]の時代、続く東晋時代にかけて[[貴族 (中国)|貴族]]社会全体で広く流行した。こうした風潮は詩歌にまで影響を及ぼし、東晋時代には、社会や身近な生活などの個別的・具体的な様相に関心を示すのを避け、観念的な玄学の哲理を説くことを主題とする「玄言詩」が登場し、東晋の詩風の主流を占めることになる。 |
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始]]年間、老荘思想に基づく学問([[玄学]])やそれを主題と哲学談義([[清談]])が、[[何晏]]らにより始められ、魏[[西晋|晋]]交替期の[[竹林の七賢]]の時代、続く東晋時代にかけて[[貴族 (中国)|貴族]]社会全体で広く流行した。こうした風潮は詩歌にまで影響を及ぼし、東晋時代には、社会や身近な生活などの個別的・具体的な様相に関心を示すのを避け、観念的な玄学の哲理を説くことを主題とする「玄言詩」が登場し、東晋の詩風の主流を占めることになる。 |
||
[[鍾嶸]]『[[詩品]]』では、玄言詩の代表的詩人として、[[孫綽 (東晋)|孫綽]]・[[許詢]]・[[桓温]]・[[ |
[[鍾嶸]]『[[詩品]]』では、玄言詩の代表的詩人として、[[孫綽 (東晋)|孫綽]]・[[許詢]]・[[桓温]]・[[庾亮]]らの名前をあげている。中でも孫綽・許詢はその双璧とされ、世に「孫許」と併称された。しかし玄言詩は、鍾嶸に「理其の辞に過ぎ、淡乎として味寡(すくな)し」「皆な平典にして道徳論に似たり」と酷評されるように、抽象的な観念論に傾斜した結果、詩としての力強さや抒情性を失い、類型化の道をたどることになる。こうした反省から、東晋後期には、[[謝混]]が具体的な山水風景の美をうたう山水詩を創始し、続く[[宋 (南朝)|宋]]の[[謝霊運]]の時代に全盛期を迎えることになる。また同時期、[[陶淵明]]が郷里の生活を主題とする田園詩を作るようになる。こうした新たな詩風が活況を呈するに及んで、玄言詩はしだいに衰退していった。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年7月23日 (木) 03:40時点における版
玄言詩(げんげんし)は、4世紀頃、中国の東晋で盛行した詩体。
魏の正始年間、老荘思想に基づく学問(玄学)やそれを主題と哲学談義(清談)が、何晏らにより始められ、魏晋交替期の竹林の七賢の時代、続く東晋時代にかけて貴族社会全体で広く流行した。こうした風潮は詩歌にまで影響を及ぼし、東晋時代には、社会や身近な生活などの個別的・具体的な様相に関心を示すのを避け、観念的な玄学の哲理を説くことを主題とする「玄言詩」が登場し、東晋の詩風の主流を占めることになる。
鍾嶸『詩品』では、玄言詩の代表的詩人として、孫綽・許詢・桓温・庾亮らの名前をあげている。中でも孫綽・許詢はその双璧とされ、世に「孫許」と併称された。しかし玄言詩は、鍾嶸に「理其の辞に過ぎ、淡乎として味寡(すくな)し」「皆な平典にして道徳論に似たり」と酷評されるように、抽象的な観念論に傾斜した結果、詩としての力強さや抒情性を失い、類型化の道をたどることになる。こうした反省から、東晋後期には、謝混が具体的な山水風景の美をうたう山水詩を創始し、続く宋の謝霊運の時代に全盛期を迎えることになる。また同時期、陶淵明が郷里の生活を主題とする田園詩を作るようになる。こうした新たな詩風が活況を呈するに及んで、玄言詩はしだいに衰退していった。