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5月、会稽内史[[王舒]]・奮武将軍[[庾冰]]が反蘇峻の兵をあげた。[[呉興郡]]太守[[虞潭]]・呉国内史蔡謨・前[[義興郡]]太守顧衆<ref>『資治通鑑』巻94では、顧従と記されている。</ref>らが兵を率いて呼応した。[[張健]]<ref>『資治通鑑』巻94では、張謹と記されている。</ref>とともに、庾冰らの軍の前鋒と[[無錫]]で交戦、勝利を収めた。馬雄らは敵地に侵入、府舎を焼き、諸県から掠奪を行った。 |
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王舒らと再び戦い、張健は[[丹陽市|曲阿]]に退いた。張健の命により、陶陽らとともに迎撃に向かったが、2千の兵を失う大敗を喫した。 |
王舒らと再び戦い、張健は[[丹陽市|曲阿]]に退いた。張健の命により、陶陽らとともに迎撃に向かったが、2千の兵を失う大敗を喫した。 |
2020年7月23日 (木) 03:33時点における版
馬 雄(ば ゆう、? - 329年)は、東晋初期の軍人。『晋書』巻76では、馬流と記されている。蘇峻の乱で蘇峻側として活躍するが、追討軍に敗れて討死した。
生涯
東晋に仕えていた。
327年10月、冠軍将軍蘇峻は歴陽で挙兵し、東晋に反旗を翻した。馬雄は蘇峻軍に呼応した。
328年2月、左衛将軍に任じられた。
5月、会稽内史王舒・奮武将軍庾冰が反蘇峻の兵をあげた。呉興郡太守虞潭・呉国内史蔡謨・前義興郡太守顧衆[1]らが兵を率いて呼応した。張健[2]とともに、庾冰らの軍の前鋒と無錫で交戦、勝利を収めた。馬雄らは敵地に侵入、府舎を焼き、諸県から掠奪を行った。
王舒らと再び戦い、張健は曲阿に退いた。張健の命により、陶陽らとともに迎撃に向かったが、2千の兵を失う大敗を喫した。
329年2月、残党軍を率いていた張健・韓晃らとともに軍を率いて故鄣へ向かった。車騎将軍郗鑒は李閎を派遣して追撃させた。両軍は平陵山で戦い、蘇峻側は壊滅、馬雄[3]は討死した。