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2020年7月22日 (水) 04:49時点における版
藤井 茂太 | |
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藤井茂太(第1軍参謀長、陸軍少将時) | |
生誕 |
1860年11月3日 播磨国福本藩 |
死没 | 1945年1月14日(満84歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1879 - 1914 |
最終階級 | 陸軍中将 |
藤井 茂太(ふじい しげた、万延元年 9月21日(1860年11月3日) - 昭和20年(1945年)1月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
福本藩(播磨国)公用人・藤井義柄の次男として生まれる。外国語学校、陸軍幼年学校を経て、明治13年(1880年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業して砲兵将校となった。野砲第2大隊付などを経て、明治18年(1885年)12月、陸軍大学校(1期)を卒業。
参謀本部第2局員、清国出張、陸大教官、ドイツ留学、兵站総監部付などを歴任し、第2軍参謀(後方主任)として日清戦争に出征。陸大教官、オーストリア公使館付、陸大教官兼教頭、陸大幹事を経て、明治35年(1902年)6月に陸軍少将に進級すると同時に陸大校長に補された[1]。
明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、同月に第1軍参謀長に補されて出征[1]。第1軍司令官の黒木為楨大将を補佐した。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』において、藤井は優れた軍参謀長として描写されているが、実際の藤井は優柔不断であり、軍参謀長の職務である「軍参謀を統括し、作戦をまとめ上げる」能力に乏しかったと指摘されている[2]。
日露戦争が明治38年(1905年)9月に終結すると内地に凱旋し、明治39年(1906年)2月に陸軍砲工学校長、明治42年(1909年)1月に東京湾要塞司令官を歴任[1]。
明治42年(1909年)8月に陸軍中将に進級し、同年11月に野戦砲兵監に転じ、大正2年(1913年)8月に第12師団長に親補された[1]。
折から帝国海軍高官による大規模な汚職が発覚し(シーメンス事件)[3]、藤井の弟である藤井光五郎・海軍機関少将が大正3年(1914年)9月に軍法会議で懲役4年6か月の有罪判決を受け[4]、失官・位記剥奪となった[4]。
第12師団は、格付けの高い「一等師団」であり、藤井は第12師団長の後にポストをもう1つ務め、陸軍大将に親任されることが確実視されていた[3]。しかし弟の犯した汚職への道義的責任を痛感した藤井は[3]、弟が有罪判決を受けるのを待たずに大正3年(1914年)5月に自ら第12師団長を辞して待命となり(依願待命)[1]、8月に予備役に編入されて現役を去った[1]。
人物
日露戦争では第1軍に外国の観戦武官が多数配置され、参謀長の藤井が広報や苦情処理に苦心した結果、好評を博した。一方、藤井は苦境にあっても観戦武官を意識して平静を装わねばならず「外国人の常に身辺に在ることは、誠に迷惑千万であった」と後に感想を述べている[5]。
年譜
- 明治8年6月 - 陸軍幼年学校入校
- 明治10年5月 - 陸軍士官学校入校
- 明治12年12月22日 - 陸軍砲兵少尉
- 明治13年12月 - 陸軍士官学校卒業
- 明治14年2月 - 野砲兵第2大隊附
- 明治17年2月 - 陸軍大学校入校
- 明治17年7月 - 陸軍砲兵中尉
- 明治18年12月24日 - 陸軍大学校卒業・参謀本部出仕
- 明治19年5月 - 参謀本部第2局員
- 明治20年4月 - 陸軍砲兵大尉
- 明治20年6月 - 清国出張(~明治20年10月)
- 明治22年12月 - 陸軍大学校教官
- 明治23年2月 - ドイツ留学
- 明治26年6月 - 帰朝・陸軍大学校教官
- 明治26年6月 - 陸軍砲兵少佐
- 明治27年6月 - 兵站総監部附
- 明治27年10月 - 第2軍参謀(後方主任)
- 明治28年4月 - 陸軍砲兵中佐
- 明治28年5月 - 陸軍大学校教官
- 明治30年9月10日 - オーストリア公使館附
- 明治30年10月11日 - 陸軍砲兵大佐
- 明治33年12月 - 帰朝
- 明治34年1月15日 - 陸軍大学校教官
- 明治34年3月13日 - 兼陸軍大学校教頭
- 明治34年10月2日 - 陸軍大学校幹事
- 明治35年5月5日 - 陸軍大学校長心得
- 明治35年6月21日 - 陸軍少将・陸軍大学校長(~明治39年2月6日)
- 明治37年2月5日 - 第1軍参謀長(~明治38年12月25日)
- 明治39年2月6日 - 陸軍砲工学校長
- 明治42年1月14日 - 東京湾要塞司令官
- 明治42年8月1日 - 陸軍中将
- 明治43年11月30日 - 野砲兵監(この頃従四位勲二等功二級)
- 大正2年8月22日 - 第12師団長
- 大正3年5月11日 - 依願待命
- 大正3年5月16日 - 勲一等瑞宝章
- 大正3年8月8日 - 予備役
- 大正12年4月 - 後備役
- 昭和20年1月14日 - 死去
栄典・授章・授賞
- 位階
- 1884年(明治17年)8月30日 - 従七位[6]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[7]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[8]
- 1907年(明治40年)11月11日 - 従四位[9]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 正四位[10]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[13]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[14]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[15]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[17]
- 外国勲章佩用允許
親族
著書
- 『両戦役回顧談』偕行社、1936年。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 秦 2005, p. 137, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-藤井茂太
- ^ 樋口 2018, pp. 22–25, 第一章 仙台第二師団、弓張嶺の夜襲 - 夜襲に決す
- ^ a b c 藤井 2019, pp. 95–99, 第三章 軍備計画と海軍軍縮 - 矮小化されたシーメンス事件
- ^ a b 秦 2005, p. 248, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-藤井光五郎
- ^ 半藤一利、横山恵一、秦郁彦、原剛『歴代陸軍大将全覧 明治篇』2009年、中公新書ラクレ。黒木為楨の項
- ^ 『官報』第370号「叙任」1884年9月19日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
参考文献
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 樋口隆晴『戦闘戦史 - 最前線の戦術と指揮官の決断』作品社、2018年。
- 藤井非三四『なぜ日本陸海軍は共に戦えなかったのか』潮書房光人新社〈光人社NF文庫〉、2019年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。