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北宋は建国当初より太祖[[趙匡胤]]の方針により、文治主義が国是であり軍隊は弱体であった。このため常に[[西夏]]など周辺諸国の軍事的脅威に晒され、中でも北方の遼は、遼が強力な国家であったという事実に加え、領土問題([[燕雲十六州]])という火種を抱えているという事情もあって最大の脅威であった。このため北宋は[[真宗 (宋)|真宗]]時期以降、対外的に「[[澶淵の盟]]」等に代表される条約を締結、「歳幣」と称する金品を支払うことで名目上の友好関係を成立させてきた。 |
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2020年7月21日 (火) 04:28時点における版
海上の盟(かいじょうのめい)は、宣和2年(1120年)に北宋と金の間で遼(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。
背景
北宋は建国当初より太祖趙匡胤の方針により、文治主義が国是であり軍隊は弱体であった。このため常に西夏など周辺諸国の軍事的脅威に晒され、中でも北方の遼は、遼が強力な国家であったという事実に加え、領土問題(燕雲十六州)という火種を抱えているという事情もあって最大の脅威であった。このため北宋は真宗時期以降、対外的に「澶淵の盟」等に代表される条約を締結、「歳幣」と称する金品を支払うことで名目上の友好関係を成立させてきた。
成立
徽宗の政和5年(1115年)、金の太祖阿骨打は遼の討伐軍を撃破し、国家としての基礎を固めた。この国際情勢を観察していた北宋は童貫・趙良嗣らが勃興著しい金と結んで遼を挟撃することを進言し、馬政とその子の馬拡を派遣し金との交渉を行った。
この時、陸路では遼の領土を通過しなければならないため、馬政・馬拡は海路で金の領土である遼東に赴いた。
交渉の結果同盟が成立し、海路で相互に往来したことから、この条約は「海上の盟」と称されることになった。
経過
成立した同盟ではあったが、遼に対して挟撃作戦を開始しようとした矢先、北宋では方臘の乱が発生し、その鎮圧に北伐軍を転用せざるを得ず、北宋は作戦に出遅れてしまった。
方臘の乱鎮圧後、ようやく童貫を指揮官に北宋軍は出征したが、耶律大石・耶律淳らの率いる遼の残党(北遼)の抵抗は予想以上に激しく、首都である燕京攻略に手こずるばかりか逆襲を受け、白溝河にまで退却を余儀なくされるほどの大打撃を受けた。耶律淳の死後にそれに乗じて劉延慶の指揮の下、燕京奇襲が実行され、耶律大石を市街戦にまで追い詰めたが、結局この攻撃も耶律大石の強固な防戦により失敗した。童貫は北遼の李処温と内通し、これに謀反を起こさせたが、この謀略は耶律大石に露呈し、李処温は処刑された。
万策尽き、独力での燕京攻略は不可能と判断した童貫は、金に燕京攻略を依頼した。これを受理した阿骨打は、北方より三路から燕京を攻撃し、耶律大石は居庸関においてこれを迎撃したが、敗北して金軍に捕らえられ、燕京は陥落した。このとき金の群臣は阿骨打に、北宋が燕京攻略の役に立たなかった事実により、燕京の譲渡を拒否してはどうかと進言した。しかし、阿骨打は海上の盟を理由にその進言を退け、住民・財産の略奪を行った後、事実上の空城を譲渡し、更に北宋に必要経費の数倍にあたる戦費(銅銭百万緡・兵糧二十万石)を請求するという実利重視の方針を取った。
破綻
こうして、金と協力して遼を華北より駆逐することに成功したものの、この後北宋は同盟継続中であったにもかかわらず、金の反乱者の受け入れ、遼と同盟し金を敵とした密約を結ぶ等、背信を続けた為、怒った金は遂に黄河を越え開封攻撃を敢行、北宋は滅亡へと向かうこととなる。