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「ノート:国際サッカー連盟」の版間の差分

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== イギリス内の4協会 ==
== イギリス内の4協会 ==

2020年7月19日 (日) 14:57時点における最新版

イギリス内の4協会

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「イギリス内の4協会(イングランド協会など)は、FIFAより早く発足していた」とありますが、FIFA発足の1904年にはアイルランドは独立前ですから、4協会のひとつはアイルランド協会でしょうか?現在はアイルランド協会と北アイルランド協会のどちらが、これに当てはまるのか。ご存知の方、よろしくお願いします。 秀の介 09:04 2003年12月22日 (UTC)

7年越しにレスします。 1880年の発足から1921年のアイルランド独立に至るまで、アイルランド全土を統括していたのはIrish Football Association (IFA)です。

つまり、この当時の4協会とはイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドです。

その後1921年のアイルランド独立に伴い、共和国部分を統括する組織としてFootball Association of Ireland (FAI)が結成されました。

しかし、その後もIFAは北アイルランドを統括する機関として残りました。

その際、IFAは名称を「北アイルランドフットボール協会」と名前を変えたわけではありません。

あくまで「アイルランドフットボール協会」のまま現在に至っています。

従って、アイルランド独立前のアイルランドサッカー協会の記録を継承しているのはIFA(北)の方です。

共和国の方は1921年創立の新参者となります。

英語の名称として「北アイルランド」が入っていないのですが、日本語で訳す際には通常「北アイルランドフットボール(サッカー)協会」と訳されます。 もちろん、IFA及びFAIの両方とも「アイルランドフットボール協会」と訳せてしまうので、あくまで便宜上の理由です。

--Nag 2010年6月28日 (月) 04:16 (UTC)[返信]

テンプレートのタイトルについて

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テンプレートのタイトルについて、「国際サッカー」は「国別大会」または「国別選手権」に、「クラブサッカー」は「クラブ別大会」または「クラブ別選手権」に変更してはと思います。219.110.173.72 2005年12月23日 (金) 01:17 (UTC)[返信]

OFCからAFCへ転籍

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オーストラリアは2006年1月でオセアニアサッカー連盟(OFC)からアジアサッカー連盟(AFC)へ転籍になりましたので、FIFAの構成国の画像を書き換えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。ご意見をお聞かせください。--以上の署名の無いコメントは、222.145.172.221会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年3月12日 (日) 14:45‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

原則1国1協会について

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>>FIFAは当初、原則1国1協会としていた。

との表現がありましたが、これは様々な歴史と照らし合わせると首を傾げざるを得ない表現ですので、削除させて頂きました。

理由: 理由として関係する各協会の加盟年を列挙します。

イングランド FIFA加盟:1905年
オーストリア FIFA加盟:1905年 協会設立:1904年
ハンガリー FIFA加盟:1907年 協会設立:1901年
チェコ FIFA加盟:1907年 協会設立:1901年
スコットランド FIFA加盟:1910年
ウェールズ FIFA加盟:1910年
北アイルランド FIFA加盟:1910年

まず、1804年のオーストリア帝国の成立から、1918年のオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊までは、ハンガリーとチェコはオーストリア=ハンガリー帝国内に存在していました。しかしハンガリーとチェコの協会はオーストリア=ハンガリー帝国内に関わらず、FIFAに加盟しています。1905年のイングランド協会がFIFAに加盟した時点で、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドがFIFAに加盟しているなら英国4協会を認めるために、1国1協会という原則を曲げることになったという説明に筋は通っていると思います。しかしそれ以前に同じ国内の3協会が加盟している前例があるので、果たしてFIFAが1国1協会という原則を掲げていたかどうかは疑問符です。(自分としてはオリンピック連盟とは違いFIFAは最初から1国1協会という原則を掲げてはいないように思いますが)

以上の理由で削除させて頂きます。Dj nix 2011年3月30日 (水) 14:09 (UTC)[返信]

正しくありません。FIFAには当初、「1国1協会」の原則がありました。しかしその運用は厳格ではなかったのです。
2004年に刊行された書籍「フットボールの歴史」(FIFA編)より引用します。強調は引用者による。
1910年5月14日から16日のミラノ総会で、CFI(フランスのスポーツ協会)は正式にFIFAに入会を認められた。スコットランド、アイルランド、それにウェールズも一国一協会という規約に反して入会が認められている。それは英国のフットボール協会がFIFA内で発言力を強めていたからであった。(CHAPTER 3「FIFAのはじまり」46頁)
FIFAは当初、ほとんど政治に関心を示さなかった。FIFAには各国の協会の政治的独立を保障する規約がなく、また規約に「一国に一協会」と明記されていたにもかかわらず、ボヘミアを代表する協会であるFCプラハの加盟を認めていた。オーストリアの協会が1909年のウィーン総会で、FCプラハの排除を要求すると、要求は通ってしまった。オーストリアの協会は、ボヘミアはその帝国の一部に過ぎないと主張していた。FIFAは、当時の政治的現実に従わざるを得なかったといえる。おかしなことに、オーストリア協会は、ハンガリーがオーストリア-ハンガリー帝国の一部であったにもかかわらず、ハンガリー協会の加盟には抗議しなかった。FIFAの原則絶対中立はこうして崩れていった。(CHAPTER 14「FIFAと国際政治」184頁)--Zemarcelo 2011年4月24日 (日) 08:19 (UTC)[返信]
FIFAには当初一国一協会という規約があった訳ですか。しかし、
>>1863年のイングランドサッカー協会 (FA)とロンドンの 12クラブによる統一ルール作成により、近代サッカーが誕生し、イギリス各地に広がり、世界中に広がった。そして、近代サッカー誕生から41年後の 1904年にFIFAが誕生。FIFAは当初、原則1国1協会としていた。が、既にイギリス本土4協会それぞれが独自に活動しており、さらに近代サッカーの母国としての優位性を主張したイギリスはFIFAに参加しなかった。
>>元々、サッカー単独の世界選手権(後のFIFAワールドカップ)を開催することが目的の一つだったFIFAは、近代サッカーの母国であり、自他共に認める近代サッカー初期の最強の国であるイギリスをFIFAに加盟させる為に、イギリス本土4協会それぞれを承認した。
との以前の説明には矛盾が生じます。英国四協会を承認する前にハンガリーとチェコの協会を認めた為に、一国一協会というFIFAの原則絶対中立は崩れたとその本でも書かれているんですよね。英国四協会云々の話しに”FIFAは当初、原則1国1協会としていた。”という説明を盛り込む必然性は全くないと思います。FIFAに当初一国一協会があったとの話しを記載するのであれば、オーストリア=ハンガリー帝国内のハンガリーとチェコの協会を認めたことでその原則が崩れた、と全く別に書くのが正しいのではないですか。-Dj nix 2011年4月25日 (月) 15:43 (UTC)[返信]
元々、というか、調べたらFIFAの定款[1]に現存してました。10条第1項において1国1協会と明記されていますが、例外として第5項(イギリスの各協会のケース)と第6項(地域のケース)がそれぞれ設けられています。
>英国四協会を承認する前にハンガリーとチェコの協会を認めた為に、一国一協会というFIFAの原則絶対中立は崩れたとその本でも書かれているんですよね。
いいえ、この「FIFAの原理原則絶対中立」というのは、政治的中立性についての原則です。ボヘミアの締め出しというオーストリア協会からのリクエストを受け入れたことにより、中立性という原則が瓦解したという解説がなされています。
では、そもそもどうしてボヘミアやハンガリーが加盟できていたのか、については下のような背景があります。
当時、領土の国籍は頻繁に変わり、しばしばその帰属が曖昧であるばかりか、国家間の論争の的になっていた。そこでFIFAは、スウェーデンの協会から要求があったにもかかわらず、「カントリー(国土)」という単語を使って定義せず、「ステート(主権国家)」と「ネーション(民族国家)」を区別しなかったのである。FIFAは定義に縛られることを嫌い、その地域の国際的な状況を考慮した上で、その時々に応じて加盟協会の要求に対処することにしたのである。(前掲書、CHAPTER 14[FIFAと国際政治」184頁)
つまり「1国1協会の原則を崩した」のではなく、「1国1協会の原則は固持していたが『国』の定義そのものが曖昧」だったのです。その点を衝いて以下のような理屈も現れました。
1908年6月7、8日のウィーン総会では、スコットランドとアイルランドからの会員資格申し込みが拒否されている。加盟が認められれば、オーストリアとドイツに属する連邦政府(オーストリア26、ドイツ12)も会員資格を申請すると脅かしてきたのだ。このことを盾に取り、オーストリアはボヘミアを排除することに成功した。(前掲書、CHAPTER 3「FIFAのはじまり」45頁)
概要節の「イギリスの本土4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各協会)は、FIFAより早く発足していたことから、特権的な地位が与えられている。」のあたりもよくわかりませんね。FIFA設立前から国内FAがあった国なんていくらでもあるわけですから。--Zemarcelo 2011年4月29日 (金) 15:20 (UTC)[返信]