コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「マラビ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
スタブはカテゴリより上に置きましょう
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: かつて存在した国家カテゴリ関連の改名に伴う修正 (Category:かつて存在したアフリカの君主国) - log
17行目: 17行目:
{{MW-stub}}
{{MW-stub}}
{{DEFAULTSORT:まらひていこく}}
{{DEFAULTSORT:まらひていこく}}
[[Category:過去のアフリカの君主国]]
[[Category:かつて存在したアフリカの君主国]]
[[Category:マラウイの歴史]]
[[Category:マラウイの歴史]]
[[Category:帝国]]
[[Category:帝国]]

2020年7月18日 (土) 09:34時点における版

1650年代のマラビ帝国の領土

マラビ帝国(Maravi、マラウィ帝国、あるいはマラヴィ帝国とも)は、 16世紀頃から19世紀末まで存在したアフリカ帝国である。本稿では、マラビ帝国を構成した複数民族の総称であるマラビ族についても述べる。

概要

16世紀ごろ、現在のマラウイにあるマラウイ湖周辺のバントゥー系民族により建国された。マラビ (Maravi) とはチェワ語で「」を意味する言葉であり、現在の国家の名称であるマラウイ (Malawi) もこれに由来する。マラビ帝国の領土は非常に大きく拡大し、トゥンブカ族トンガ族の領土を含み、シーレ川下流域まで、西ルアングワ川ザンベジ川流域まで達したといわれる。

マラビ帝国の支配者は、フィリ (Phiri) の氏族でカロンガ (Kalonga) の肩書きを持つものであり、マンチンバ (Manthimba) を統治していた。19世紀には、マラビ帝国は近隣の部族であるヤオ族による攻撃を頻繁に受け、捕らえられた者は奴隷として売られた。デイヴィッド・リヴィングストンが1859年にニアサ湖(マラウイ湖)を訪れた後、プロテスタント宣教師がその後に続いた。1891年には、イギリスによって保護領イギリス中央アフリカ保護領とされて植民地となったことで、マラビ帝国は歴史上から姿を消した。

なお、マラビ族 (Maravi) は、マラウイザンビアジンバブエモザンビークにおける複数の部族 (black tribes) の総称でもある。現在のマラビ族はチェワ語(マラウイの公用語)のほか、複数の通用語を用いている。すなわち、モザンビークでの公用語はポルトガル語であり、マラウイ、ザンビア、ジンバブエでの公用語は英語である。

外部リンク