「ドイツ領トーゴラント」の版間の差分
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2020年7月18日 (土) 09:29時点における版
Schutzgebiet Togo | ||||||
保護領 | ||||||
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緑:ドイツ領トーゴラント
薄緑:その他のドイツの植民地 | ||||||
首都 | バギダ(1884–87) セベ(1887–97) ロメ(1897–1916) | |||||
言語 | ドイツ語(公用語) エウェ語 カビエ語 テム語 | |||||
宗教 | アカン教 イスラム教 キリスト教 民族宗教 | |||||
政治機構 | 保護領 | |||||
歴史・時代 | 新帝国主義 | |||||
• | アフリカ分割 | 1884年7月5日 | ||||
• | アフリカ戦線 | 1914年8月26日 | ||||
• | 分割 | 1916年12月27日 | ||||
面積 | ||||||
• | 1913 | 77,355 km² (29,867 sq mi) | ||||
通貨 | 金マルク | |||||
現在 | ガーナ トーゴ |
ドイツ領トーゴラント(ドイツ語:Schutzgebiet Togo)は、1884年~1916年に西アフリカに存在したドイツ帝国の植民地。 現在のトーゴに加え、ガーナのヴォルタ州の大部分を支配し、面積は7万7355 km²だった[1][2]。
歴史
ドイツの侵略
1884年、アフリカ分割の末期にドイツ帝国が侵略した。 2月、ドイツ軍がアネホ町の首長を誘拐し、保護条約締結を強制した[3]。 ロメ地方ではドイツ保護領カメルーンと同様にグスタフ・ナハティガルが侵略を主導した。 7月5日、ナハティガルは現地のムラパ3世と保護条約を結び、ベニン湾の奴隷海岸に領土を獲得した。
1888年、行政府は25人のハウサ人から成る歩兵隊(Polizeitruppe)を組織し、内陸部の侵略に用いた。
1890年、ドイツ人役人の人口は12人だった。 社会基盤はアフリカの最高水準に達した。 内陸の山脈に向かって道路や橋が建設された。
1894年、Polizeitruppeは144人に拡大し、クパンドゥ等の「トーゴ中央の抵抗都市」は完全に破壊された。 住民の財産は没収され、200~1110金マルク/人の罰金が科された。
1895年、首都ロメの人口はドイツ人31人と先住民2084人だった。
1899年、ドイツはイギリス帝国からトーゴ中立地域(イェンディとヴォルタ・トライアングルを獲得し、ドイツ領サモアと北ソロモン諸島、トンガを割譲した[4]。 行政府はカカオや珈琲、綿の栽培を導入した。
1905年、ロメとアネホを結ぶ鉄道が開通した。
1910年、建設された道路が1000kmを超えた。
1911年、ロメとアタクパメを結ぶ鉄道(後背地線)が開通した[5]。
1913年までに、ロメの人口はドイツ人194人(内女性が33人)と先住民7042人に増加した。 トーゴラント全体ではドイツ人は316人で、その内女性が61人、子供が14人だった[6]。 第一次世界大戦直前には、ロメは「西アフリカで最も美しい都市」になった[7]。
第一次世界大戦と消滅
1914年8月6日、連合軍はドイツの植民地に降伏を勧告した。 8月7日、フランス第三共和政とイギリス帝国の軍隊がトーゴラントを侵略した。 ドイツ軍人は1人もおらず、警察の司令官・副司令官として10人だけ存在した。 これに加え、先住民は司令官が1人と警察官が660人おり、彼らが全土に配置されていた[8]。 連合国軍はロメを占領し、アタクパメ東部のカミナ・ラジオ局に進軍した。 8月24日夜から25日にかけて、ラジオ局のドイツ人技師が施設を破壊した。 8月26日、植民地政府は降伏した。
フランスとイギリスの分断統治、独立
1916年12月27日、トーゴラントはフランスとイギリスに分割された。
1922年7月20日、ヴェルサイユ条約が批准され、トーゴラントは国際連盟のB級委任統治領となり、フランス領トーゴランドとイギリス領トーゴランドに分割された。 フランス領が全体の面積の約2/3を占めた[9]。
1956年5月、イギリス領で国民投票が行われ、58%がガーナへの統合を望んだ。
1957年3月6日、ガーナがイギリスから独立した。 12月13日、イギリス領はガーナに統合された。
統治者
関連項目
脚注
- ^ “Rank Order – Area”. CIA World Fact Book. 12 April 2008閲覧。
- ^ David Owusu-Ansah. Historical Dictionary of Ghana (4 ed.). Rowman & Littlefield. p. xii.
- ^ Laumann, "A Historiography of German Togoland", p. 195
- ^ Paul M. Kennedy, "The Samoan Tangle: A Study in Anglo-German-American Relations, 1878–1900", Harper & Row, p 1974.
- ^ Haupt,Deutschlands Schutzgebiete, p. 82
- ^ Haupt, p. 81
- ^ Haupt, p. 74
- ^ Haupt, p. 79
- ^ Martin, Lawrence (2007). The treaties of peace, 1919–1923. 2. The Lawbook Exchange, Ltd.. p. 15. ISBN 978-1-58477-708-3 19 July 2011閲覧。
参考資料
- Haupt, Werner (1984). Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884–1918. [Germany’s Overseas Protectorates 1884–1918]. Friedberg: Podzun-Pallas Verlag. ISBN 3-7909-0204-7
- Laumann, Dennis (2003). “A Historiography of German Togoland, or the Rise and Fall of a "Model Colony"”. History in Africa 30: 195–211.
- Washausen, Helmut (1968). Hamburg und die Kolonialpolitik des Deutschen Reiches. [Hamburg and Colonial Politics of the German Empire]. Hamburg: Hans Christians Verlag