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「摂政皇太子」の版間の差分

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*[[フランドル伯]][[シャルル・ド・ベルジック|シャルル]]は、兄のベルギー王[[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]の立場が[[第二次世界大戦]]後、[[リリアン・バエル]]との結婚によって危うくなりかけた時期、[[1944年]]から[[1950年]]にかけて摂政を務めた。
*[[フランドル伯]][[シャルル・ド・ベルジック|シャルル]]は、兄のベルギー王[[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]の立場が[[第二次世界大戦]]後、[[リリアン・バエル]]との結婚によって危うくなりかけた時期、[[1944年]]から[[1950年]]にかけて摂政を務めた。
*[[清]]の睿親王[[ドルゴン]]は、[[1643年]]から[[1650年]]まで、甥であり即位時にまだ6歳だった[[順治帝]]の摂政を務めた。ドルゴンは、[[明]]の正当な後継者として清朝を建てるため、[[満州民族|満州族]]の勢力が[[1644年]]に[[北京]]へ侵攻するために力を発揮した。清の歴史書において、ドルゴンは「摄政王」として言及された最初の人物となった。
*[[清]]の睿親王[[ドルゴン]]は、[[1643年]]から[[1650年]]まで、甥であり即位時にまだ6歳だった[[順治帝]]の摂政を務めた。ドルゴンは、[[明]]の正当な後継者として清朝を建てるため、[[満州民族|満州族]]の勢力が[[1644年]]に[[北京]]へ侵攻するために力を発揮した。清の歴史書において、ドルゴンは「摄政王」として言及された最初の人物となった。
*[[愛新覚羅載ホウ|醇親王載灃]]は、清朝末期の[[1908年]]から[[1911年]]まで、幼い息子[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]の摂政を務めた。ドルゴン以外で「摄政王」と称されたのは中国史上、載灃だけである。
*[[愛新覚羅載|醇親王載灃]]は、清朝末期の[[1908年]]から[[1911年]]まで、幼い息子[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]の摂政を務めた。ドルゴン以外で「摄政王」と称されたのは中国史上、載灃だけである。
*[[日本]]の[[昭和天皇]]は、即位前、皇太子であった[[1921年]]から[[1926年]]まで、病気だった父帝・[[大正天皇]]に代わって[[摂政|摂政宮]]として公務を行った。
*[[日本]]の[[昭和天皇]]は、即位前、皇太子であった[[1921年]]から[[1926年]]まで、病気だった父帝・[[大正天皇]]に代わって[[摂政|摂政宮]]として公務を行った。
*[[ユーゴスラビア王国]]の[[パヴレ・カラジョルジェヴィチ|パヴレ王子]]は、[[1934年]]から[[1941年]]まで、[[セルビア語]]で「摂政皇太子殿下」を意味する「''Његово Краљевско Височанство, Кнез Намесник''」の称号で呼ばれていた。
*[[ユーゴスラビア王国]]の[[パヴレ・カラジョルジェヴィチ|パヴレ王子]]は、[[1934年]]から[[1941年]]まで、[[セルビア語]]で「摂政皇太子殿下」を意味する「''Његово Краљевско Височанство, Кнез Намесник''」の称号で呼ばれていた。

2020年7月18日 (土) 02:43時点における版

イギリス国王ジョージ4世は、即位に先立つ1811年から1820年まで、精神障害に陥った父王ジョージ3世に代わる摂政王太子であった。

摂政皇太子英語: prince regent, prince-regent)は、君主が幼かったり、病気によって無能力状態に陥っていたり、あるいは、亡命したり長い航海などで遠隔地にいて不在となる場合に、君主に代わって摂政として君主国を統治する王子。この表現は普通名詞であり、誰であれ、摂政の役割を果たす王子を指すことができるが、実際には、摂政を務めた王子たちのうち、少数の者だけが、それぞれの歴史的状況において、この名で言及されてきた。

なお、ここで「皇太子」は、皇帝天皇に限らず君主の継承順位首位者を指しているが、「皇太子」を狭義にのみ用い、王位継承については「王太子」といった表現を用いる場合は、摂政王太子という表現を用いることもある。

イギリスにおける摂政王太子

英語圏で「摂政王太子 (Prince Regent)」といえば、一般的にはイギリス国王ジョージ4世のことである。父王ジョージ3世が精神異常をきたして無能力状態に陥ったため、プリンス・オブ・ウェールズであったジョージが摂政となった。ロンドンにあるリージェンツ・パークリージェント・ストリートは、この後のジョージ4世にちなんで名付けられたものである。

ジョージ4世が、即位に先立ち摂政王太子として統治した時代は、「イギリスの摂政時代 (British Regency)」、あるいは単に「摂政時代 (Regency)」と呼ばれる。

摂政王太子の称号は、1811年2月5日にジョージに与えられた。当初の間は摂政の権限には一定の制約があったものの、摂政王太子は国王のあらゆる権能を執行することができた。1788年に父王ジョージ3世が最初の狂気の発作に見舞われた「摂政危機 (Regency Crisis)」(このときはジョージ3世がいったん回復したため摂政を置くには至らなかった)と同様の状態が、やがて再発した。ウェールズ公ジョージは、父王崩御の1820年まで摂政を務めた後、即位してジョージ4世となった。

ドイツにおける摂政王子

ドイツで「摂政王子/摂政宮 (Prinzregent)」といえば、一般的にはバイエルン王国の王子ルイトポルトのことである[1]。ルイトポルトは、自分の甥にあたる2人のバイエルン王、すなわち1886年に精神障害と宣告されたルートヴィヒ2世と、即位に先立つ1875年に発狂が宣告されていたオットー1世に代わって、1886年から1912年に没するまで摂政を務めた。

ルイトポルトの摂政時代、バイエルン王国では芸術・文化活動が高揚し、後年「摂政宮時代 (Prinzregentenjahre, Prinzregentenzeit)」と称されるようになった。バイエルンの都市や町には、「摂政宮通り (Prinzregentenstraße)」と名付けられた通りが数多くある。ルイトポルトを讃えて名付けられた組織なども多く、例えば、ミュンヘンには「摂政宮劇場 (Prinzregententheater)」がある。「摂政宮トルテ (Prinzregententorte)」はチョコレート・バタークリームを使った、何層にも重ねたケーキ(タルト)で、ルイトポルトを讃えて名付けられたものである。

ルイトポルトは1912年に没し、その息子ルードヴィッヒが後を継いで摂政宮となった。ルードヴィッヒはその後1年も経たないうちにバイエルン議会の決定によって国王と認められた。

ルクセンブルクの「大公代理」

ルクセンブルク大公の後継者である皇太子は、現大公が大公位に形式上は留まったまま、皇太子が「君主見習い」として君主の機能の大部分を徐々に代行するようになると、prince-lieutenant(「大公代理」の意) の称号で呼ばれることがある。大公ジャンは、先代であった母シャルロットの在位(1919年 - 1964年:ただし、1985年まで存命)の最後の時期にあたる1961年5月4日から1964年11月12日に、君主の仕事を代行した。また、ジャンの息子アンリも、1998年3月3日から2000年10月7日まで、父大公が退位して大公位を継承するまで、同様に君主の仕事を代行した。

君主の配偶者などによる摂政

歴史上の様々な時代において、国王が統治できない状態になったり、長期間にわたって国外へ出て不在となるような場合に、配偶者が代役に立ち、臨時に摂政宮の務めを果たすという例がある。時には、非公式に摂政と見なされることもある。国王の配偶者は、必要とされれば統治に関与する。スワジランド王国では、君主が幼かったり、何らかの理由で統治できない場合は、皇太后が一時的に代役を務める。

その他の著名な摂政皇太子、摂政宮

特に肩書きを持たなかった者を含め、さらに多くの摂政皇太子、摂政宮の事例は、英語版の「Regent」を参照。

出典・脚注

  1. ^ ルイトポルトは皇太子(王太子)ではないので、「摂政皇太子」ではない。

関連項目

外部リンク