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光緒26年([[1900年]])、[[義和団の乱]]が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后に連れられて[[西安市|西安]]まで落ち延びた。[[レジナルド・ジョンストン]]は宦官から聞いた話によると、当時皇帝は、紫禁城を脱出しようと目論んだけれども、宮中の宦官に止められたという。<ref>{{Cite book|和書|others=中山理訳、渡部昇一監修|year=2008|month=10|title=完訳 紫禁城の黄昏 上|series=祥伝社黄金文庫|publisher=祥伝社|isbn=978-4-396-31468-2|url=http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784396314682}},p.83。</ref>その際に光緒帝の側室[[珍妃]]が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。西太后の命令で復帰した李鴻章と列強の交渉で翌27年([[1901年]])に[[北京議定書|辛丑和約]]を締結、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である[[光緒新政]]が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。
光緒26年([[1900年]])、[[義和団の乱]]が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后に連れられて[[西安市|西安]]まで落ち延びた。[[レジナルド・ジョンストン]]は宦官から聞いた話によると、当時皇帝は、紫禁城を脱出しようと目論んだけれども、宮中の宦官に止められたという。<ref>{{Cite book|和書|others=中山理訳、渡部昇一監修|year=2008|month=10|title=完訳 紫禁城の黄昏 上|series=祥伝社黄金文庫|publisher=祥伝社|isbn=978-4-396-31468-2|url=http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784396314682}},p.83。</ref>その際に光緒帝の側室[[珍妃]]が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。西太后の命令で復帰した李鴻章と列強の交渉で翌27年([[1901年]])に[[北京議定書|辛丑和約]]を締結、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である[[光緒新政]]が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。


光緒34年(1908年)10月21日に崩御、翌日の22日に西太后も死去。[[清西陵]]に陵墓がある。子が無かったため、西太后の遺言で甥に当たる[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が宣統帝として即位、実父で光緒帝の弟である醇親王[[愛新覚羅載ホウ|載灃]]が政権を委ねられたが、象徴を失った清は3年後の宣統3年から4年([[1911年]] - [[1912年]])にかけて起こった[[辛亥革命]]で滅亡した<ref>並木、P298 - P302、P314 - P317、加藤、P232 - P267、岡本、P193 - P201。</ref>。
光緒34年(1908年)10月21日に崩御、翌日の22日に西太后も死去。[[清西陵]]に陵墓がある。子が無かったため、西太后の遺言で甥に当たる[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が宣統帝として即位、実父で光緒帝の弟である醇親王[[愛新覚羅載|載灃]]が政権を委ねられたが、象徴を失った清は3年後の宣統3年から4年([[1911年]] - [[1912年]])にかけて起こった[[辛亥革命]]で滅亡した<ref>並木、P298 - P302、P314 - P317、加藤、P232 - P267、岡本、P193 - P201。</ref>。


== 死にまつわる謎 ==
== 死にまつわる謎 ==

2020年7月18日 (土) 02:41時点における版

光緒帝 愛新覚羅載
第11代皇帝
王朝
在位期間 1875年2月25日 - 1908年11月14日
姓・諱 愛新覚羅載(アイシンギョロ・ヅァイティヤン)
満洲語 ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡯᠠᡞ ᠲᡞᠶᠠᠨ(aisin gioro dzai tiyan)
諡号 景皇帝(ambalinggū hūwangdi)
同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寬勤景皇帝
廟号 徳宗
生年 同治10年6月28日1871年8月14日
没年 光緒34年10月21日1908年11月14日
醇親王奕譞
葉赫那拉氏(西太后妹)
后妃 孝定景皇后(隆裕皇太后、葉赫那拉氏、西太后姪)
陵墓 崇陵(wesihun munggan)
年号 光緒 (badarangga doro): 1875年 - 1908年

光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、の第11代皇帝(在位:1875年 - 1908年)。載湉(湉はさんずいに恬)。廟号徳宗(とくそう)。在世時の元号光緒を取って光緒帝と呼ばれる。

生涯

光緒帝の読書像

道光帝の第7子醇親王奕譞の第2子として生まれる。母は西太后の妹である。従兄の同治帝が早世した後に権力保持を狙う伯母の西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、実権は西太后が握り垂簾聴政が行われた。当初は東太后や伯父の恭親王奕訢も政権を担ったが、光緒7年(1881年)に東太后が急死、光緒10年(1884年)に恭親王が西太后に失脚させられると西太后が事実上政権の首班になった。

同治帝の頃からあった清の衰退は光緒帝の治世でも続き、同治10年(1871年)の新疆で勃発したヤクブ・ベクの乱の最中に起こったロシアイリ占拠、光緒元年(1875年)の日本による朝鮮の干渉(江華島事件)、光緒5年(1879年)の日本の琉球併合(琉球処分)、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失などが挙げられる。それでも西太后の信任が厚い李鴻章左宗棠らによる洋務運動で清の経済・技術発展が進められ、新疆は光緒3年(1877年)までに左宗棠に平定され、光緒7年(1881年)のイリ条約でイリはロシアから返還された。朝鮮を巡る日本との外交も李鴻章が光緒8年(1882年)の壬午事変、光緒10年(1884年)の甲申政変を経て光緒11年の天津条約で朝鮮に足場を築き、ある程度は国力を持ち直した。

光緒帝は16歳になった光緒13年(1887年)に西太后から政権を委譲されたが、彼女の指導で政治を行う訓政という形で継続、光緒15年(1889年)に結婚に伴い正式に親政を開始した[1]

だが、親政により翁同龢李鴻藻ら側近が光緒帝に接近して派閥が結成されると西太后・李鴻章らと対立、光緒20年(1894年)の日清戦争敗北による李鴻章の淮軍北洋艦隊壊滅、翌21年(1895年)の下関条約で明記された朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国の不甲斐なさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。それゆえ日清戦争後李鴻章を罷免、康有為梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようと光緒24年(1898年)に体制の抜本的な改革を宣言した(戊戌の変法)。

しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデターを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。西太后は一時光緒帝の廃位を考え、光緒帝の従甥で自らの大甥でもある端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、列強の反対にあい光緒帝の廃位は断念した[2]

光緒26年(1900年)、義和団の乱が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后に連れられて西安まで落ち延びた。レジナルド・ジョンストンは宦官から聞いた話によると、当時皇帝は、紫禁城を脱出しようと目論んだけれども、宮中の宦官に止められたという。[3]その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。西太后の命令で復帰した李鴻章と列強の交渉で翌27年(1901年)に辛丑和約を締結、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。

光緒34年(1908年)10月21日に崩御、翌日の22日に西太后も死去。清西陵に陵墓がある。子が無かったため、西太后の遺言で甥に当たる溥儀が宣統帝として即位、実父で光緒帝の弟である醇親王載灃が政権を委ねられたが、象徴を失った清は3年後の宣統3年から4年(1911年 - 1912年)にかけて起こった辛亥革命で滅亡した[4]

死にまつわる謎

肖像

死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から砒素で毒殺されたという噂があった。

1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた[5]

しかしながら2003年より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、2007年に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され[6]「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」とし、再び砒素による毒殺の可能性がクローズアップされてきた。

その後も調査を進め光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。毒の残留状況や文献記録などから慢性中毒ではないとして委員会は2008年、光緒帝の死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものと結論付けた[7][8]。研究の成果は、編纂中の清史に反映される予定。

犯人についてはいくつかの説があり、主なものを以下に列挙する。だが、いずれの説にも証拠はなく、また共謀している可能性も考えられるものの、真相は明らかになっていない。

西太后犯人説
『崇陵伝信録』及び『清稗類鈔』等が唱える。死去直前の西太后が毒殺を命じたという説。西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したと記している。
袁世凱犯人説
溥儀が自伝の『わが半生』で唱える。かつて戊戌変法で光緒帝を裏切った袁世凱にとって、西太后が死去して光緒帝が復権することは、自身への報復を意味していた。「西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が、宦官を利用し、先手を打って光緒帝を暗殺した、という論理である[9]
李蓮英犯人説
『慈禧外伝』及び徳齢の『瀛台泣血記』等が唱える。長年西太后に仕えていた宦官の李蓮英が毒殺したという説。西太后の死去で自らの後ろ盾を失い、報復されるのを恐れて暗殺したという論理である。通訳として宮廷に仕えていた徳齢などは、西太后の威を借り横暴を究めていた李蓮英が、光緒帝の復権により報復を受けることを恐れて光緒帝を殺害したとしている。
その他毒殺説
『逸経』等にある、侍医が毒殺したという説など。

后妃

皇后が1人、側室が2人いたが、いずれの女性の間にも子供は生まれなかった。

  • 孝定景皇后(hiyoošungga toktonggo ambalinggū hūwangheo)(同治7年(1868年) - 民国2年(1913年))。西太后の弟桂祥の娘で、西太后の姪にあたる。選秀女に参加して入選し、1889年に光緒帝の皇后に立てられる。西太后と光緒帝が対立したため、光緒帝に疎まれ夫婦仲はよくなかったという。溥儀が宣統帝として即位すると嫡母となり、隆裕皇太后(wesihun elgiyen hūwang taiheo)と徽号される。辛亥革命では清朝内部で主戦派と和平派の論争が起きるが、最終的には隆裕皇太后が和平派に傾き、皇帝退位の決断をした。そのため民国時代には、古代に禅譲した帝王にたとえられ、「女の中の堯舜」と呼ばれた。1913年2月に死去した際には民国政府から国葬級の待遇を受け、大規模な国民哀悼会が開催された。また、棺を西陵に埋葬する際には、多くの民国政府の官僚が西陵まで参列した。諡号は孝定景皇后。西陵の崇陵に光緒帝とともに葬られている。隆裕の本名については西太后#西太后の本名についてを参照
  • 温靖皇貴妃(同治13年(1874年) - 民国13年(1924年)):タタラ(Tatala、他他拉)氏の長叙の娘。妹とともに選秀女に参加して入選。瑾嬪となり後に瑾妃(gincihiyangga fei)に進む。妹珍妃が西太后の怒りにふれたため、一時期貴人に落とされるが、後に瑾妃に復帰。溥儀が即位すると皇考瑾貴妃と尊称された。民国年間には端康皇貴妃の徽号が送られた。いわゆる四太妃の1人。隆裕皇太后の死後は、実家が袁世凱に賄賂を贈ったために四太妃のなかで主導的地位につき、紫禁城の奥向きを取り仕切った。溥儀の『わが半生』によると、少年時代の溥儀の生活に干渉したため煙たい存在だったようだ。1924年死去。諡は温靖皇貴妃。
  • 恪順皇貴妃(光緒2年(1876年) - 26年(1900年)):タタラ氏の長叙の娘で瑾妃の異母妹。姉とともに選秀女に参加して入選。珍嬪となり後に珍妃(ujengge fei)に進む。光緒帝に最も寵愛された。西太后の不満を買い、貴人に落とされるが、後に珍妃に復帰。戊戌政変では光緒帝に賛同し励ました為に再び西太后の不興を買い、紫禁城内の一室に幽閉される。義和団の乱で8ヶ国連合軍が北京を占領した際、西太后の命令に因り井戸に突き落とされて殺害された。翌年西太后らが北京に戻るとようやく井戸から引き上げられて葬儀が行われ、恪順皇貴妃の諡号が送られた。清朝の公式発表では、8ヶ国連合軍が迫り節を守るために自殺したとされている。瑾妃、珍妃姉妹の墓は西陵の崇陵の妃園寝にある。

脚注

  1. ^ 並木、P232 - P235、加藤、P176 - P178、P182 - P199、岡本、P118 - P156。
  2. ^ 並木、P235 - P242、P253 - P258、加藤、P204 - P232、岡本、P171 - P193。
  3. ^ 完訳 紫禁城の黄昏 上』中山理訳、渡部昇一監修、祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2008年10月。ISBN 978-4-396-31468-2http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784396314682 ,p.83。
  4. ^ 並木、P298 - P302、P314 - P317、加藤、P232 - P267、岡本、P193 - P201。
  5. ^ 加藤、P264 - P265。
  6. ^ “最新科学で100年の謎を解明!清朝11代皇帝光緒帝の死因はヒ素による毒殺か?―香港誌”. レコードチャイナ. (2007年12月5日). http://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html 2011年2月14日閲覧。 
  7. ^ “犯人は西太后か?光緒帝の突然死、ヒ素中毒と確定―中国”. レコードチャイナ. (2008年11月4日). http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=25475 2011年2月14日閲覧。 
  8. ^ 清朝末期の光緒帝、死因はヒ素中毒…中国各紙伝える 読売新聞(2008年11月3日)
  9. ^ 溥儀『我的前半生』群衆出版社、1964年、20-21頁。邦訳は小野忍ほか訳、『わが半生:「満州国」皇帝の自伝』筑摩書房、1977年。

参考文献

関連項目