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== 概要 ==
== 概要 ==
1911年[[10月10日]]([[8月19日 (旧暦)|8月19日]])、[[孫文]]らを中心に[[辛亥革命]]が勃発する。清朝内では袁世凱を除いてこれを鎮圧できる人物はいないと判断。11月1日、[[慶親王]][[愛新覚羅奕キョウ|奕劻]]を退任させ、袁を内閣総理大臣兼湖広総督に任命した。袁は同月[[11月16日|16日]]に閣僚を任命し、正式に内閣が発足した。
1911年[[10月10日]]([[8月19日 (旧暦)|8月19日]])、[[孫文]]らを中心に[[辛亥革命]]が勃発する。清朝内では袁世凱を除いてこれを鎮圧できる人物はいないと判断。11月1日、[[慶親王]][[愛新覚羅奕|奕劻]]を退任させ、袁を内閣総理大臣兼湖広総督に任命した。袁は同月[[11月16日|16日]]に閣僚を任命し、正式に内閣が発足した。


== 内閣構成員 ==
== 内閣構成員 ==

2020年7月18日 (土) 02:41時点における版

袁世凱内閣
内閣総理大臣 第2代 袁世凱
成立年月日 1911年11月1日宣統3年9月11日
終了年月日 1912年2月12日(同年12月25日
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袁世凱内閣(えんせいがいないかく)は、袁世凱が第2代内閣総理大臣に任命され、宣統3年9月11日1911年11月1日)から同年12月25日 (翌年2月12日)まで続いた清朝内閣である。

概要

1911年10月10日8月19日)、孫文らを中心に辛亥革命が勃発する。清朝内では袁世凱を除いてこれを鎮圧できる人物はいないと判断。11月1日、慶親王奕劻を退任させ、袁を内閣総理大臣兼湖広総督に任命した。袁は同月16日に閣僚を任命し、正式に内閣が発足した。

内閣構成員

袁世凱

内閣の総理大臣・閣僚は下記のとおり。特に説明が無い限りは1911年11月1日(宣統3年9月11日)に任命され、1912年2月12日(宣統3年12月25日)の内閣瓦解と共に解任された。日付は全てユリウス暦[1]

  • 内閣総理大臣袁世凱<漢人>(十二月八日(1912年1月26日)封一等侯)
  • 外務部
  • 民政部
    • 民政大臣:趙秉鈞<漢人>
    • 民政副大臣:烏珍<旗人>(十一月三十日(1912年1月18日)授歩軍統領,仍兼民政副大臣)
  • 度支部
    • 度支大臣:厳修<漢人>
    • 度支副大臣:陳錦濤(十月十七日(1911年12月7日)病免)、周自斉(十月十七日(1911年12月7日)授)
  • 学部
    • 学務大臣:唐景崇<漢人>
    • 学務副大臣:楊度(九月二七日(1911年11月17日)辞任)、劉廷琛(九月二七日(1911年11月17日)授,十月二九日(1911年12月19日)病免)、張元済(十一月二六日(1912年1月14日)授,十二月十六日(1912年2月3日)張元奇署)
  • 陸軍部
  • 海軍部
  • 法部
    • 司法大臣:沈家本<漢人>
    • 司法副大臣:梁啓超大理院正卿定成署,十一月十一日(1911年12月30日)辞任)、曽鑑(十一月十一日(1911年12月30日)授)
  • 農工商部
    • 農工商大臣:張謇<漢人>(農工商副大臣熙彦暫署)
    • 農工商副大臣:熙彦<旗人>(暫署大臣;左丞祝瀛元署)
  • 郵伝部
    • 郵伝大臣:楊士琦<漢人>(十一月十六日(1912年1月4日)辞任、郵伝部左参議梁士詒署)
    • 郵伝副大臣:梁如浩(郵伝部左参議梁士詒署;十一月二三日(1912年1月11日)鑲紅旗蒙古副都統李経邁署;十二月十五日(1912年2月2日)法制院参議阮忠枢署)
  • 理藩部
    • 理藩大臣:達寿<旗人>
    • 理藩副大臣:栄勲<旗人>

清の滅亡

袁は部下の段祺瑞馮国璋らを革命鎮圧に向かわせるも自らは動かず、裏で革命派と連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の約束を取りつけた途端に寝返り、清朝に政権の交代を促した。それにより1912年2月12日、宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任した。

参考文献

  1. ^ 銭実甫編,清代職官年表,北京:中華書局,1980年,p.332.