コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「セルゲイ・ウィッテ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
128行目: 128行目:
[[1898年]]の[[ラウリツ・トゥクセン]]による作品
[[1898年]]の[[ラウリツ・トゥクセン]]による作品
]]
]]
結局、ウィッテの意見が通り、外相[[アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー]]が[[フランス]]・ドイツに呼びかけて[[三国干渉]]を主導した<ref name="yokote29" /><ref name="2002wada251"/><ref name="1994wada317" />。これは、東アジアにおける提携先として日本ではなく清国を選んだことでもあるが、日本国民からの非常に強い憤りを買った反面、清国からは実際にその見返りももたらされた<ref name="yokote29" /><ref name="1994wada317" />。同年6月、ウィッテは清国領の満洲を横断してウラジオストクまで通じる鉄道の建設権を獲得しようと画策し、清国が日本への賠償金支払いのための借款をパリの銀行から得るのに際し、ロシアが利子元本償却の保証を与える協定を結んだ<ref name="1994wada317" />。そして、1895年末にはそこから発展して資本金600万ルーブルの[[露清銀行]]を設立し、さらに翌1906年には、ニコライ2世の[[戴冠式]]のためにロシアを訪れた[[李鴻章]]との間に[[露清密約]](李・ロバノフ密約)を結ばせ、清国に[[東清鉄道]]敷設権を認めさせることに成功したのである<ref name="yokote29" /><ref name="2002wada251"/><ref name="1994wada317" />。このとき、李鴻章には莫大な賄賂が贈られたという<ref name="1994wada317"/>。東清鉄道は、満洲を横切ってウラジオストクまで通じる路線で、ヨーロッパ・ロシアと[[沿海州]]を結ぶ鉄道の距離が大幅に短縮されるだけでなく、[[アムール川]]沿いの工事が技術的に困難だとされた当時にあっては、この利権の獲得は鉄道建設を大いに促進する意味合いを有していた<ref name="yokote29" />。さらにこのとき、ウィッテは李鴻章を抱き込んで、日本を対手とする攻守の密約も結んでいる<ref name="sumiya215">[[#隅谷|隅谷(1974)p.215]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|露清密約は、日露戦争中の1904年[[5月13日]]、清朝初代総理大臣の[[愛新覚羅奕キョウ|慶親王奕劻]]によってその存在が暴露され、5月18日、清国によって破棄された。}}。1896年末、露清銀行によって設立された東清鉄道会社には、鉄道沿線の土地の管理権と検察権が与えられた<ref name="1994wada317"/>。ここで注意しておかなければならないのは、東清鉄道のゲージ幅がシベリア鉄道と同じ5フィートの広軌だったことで、これにより、シベリア鉄道を走ってきた列車は乗り換えや台車の交換といったことなく満洲を横断することが可能になったことである<ref name="inoue22" />。
結局、ウィッテの意見が通り、外相[[アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー]]が[[フランス]]・ドイツに呼びかけて[[三国干渉]]を主導した<ref name="yokote29" /><ref name="2002wada251"/><ref name="1994wada317" />。これは、東アジアにおける提携先として日本ではなく清国を選んだことでもあるが、日本国民からの非常に強い憤りを買った反面、清国からは実際にその見返りももたらされた<ref name="yokote29" /><ref name="1994wada317" />。同年6月、ウィッテは清国領の満洲を横断してウラジオストクまで通じる鉄道の建設権を獲得しようと画策し、清国が日本への賠償金支払いのための借款をパリの銀行から得るのに際し、ロシアが利子元本償却の保証を与える協定を結んだ<ref name="1994wada317" />。そして、1895年末にはそこから発展して資本金600万ルーブルの[[露清銀行]]を設立し、さらに翌1906年には、ニコライ2世の[[戴冠式]]のためにロシアを訪れた[[李鴻章]]との間に[[露清密約]](李・ロバノフ密約)を結ばせ、清国に[[東清鉄道]]敷設権を認めさせることに成功したのである<ref name="yokote29" /><ref name="2002wada251"/><ref name="1994wada317" />。このとき、李鴻章には莫大な賄賂が贈られたという<ref name="1994wada317"/>。東清鉄道は、満洲を横切ってウラジオストクまで通じる路線で、ヨーロッパ・ロシアと[[沿海州]]を結ぶ鉄道の距離が大幅に短縮されるだけでなく、[[アムール川]]沿いの工事が技術的に困難だとされた当時にあっては、この利権の獲得は鉄道建設を大いに促進する意味合いを有していた<ref name="yokote29" />。さらにこのとき、ウィッテは李鴻章を抱き込んで、日本を対手とする攻守の密約も結んでいる<ref name="sumiya215">[[#隅谷|隅谷(1974)p.215]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|露清密約は、日露戦争中の1904年[[5月13日]]、清朝初代総理大臣の[[愛新覚羅奕|慶親王奕劻]]によってその存在が暴露され、5月18日、清国によって破棄された。}}。1896年末、露清銀行によって設立された東清鉄道会社には、鉄道沿線の土地の管理権と検察権が与えられた<ref name="1994wada317"/>。ここで注意しておかなければならないのは、東清鉄道のゲージ幅がシベリア鉄道と同じ5フィートの広軌だったことで、これにより、シベリア鉄道を走ってきた列車は乗り換えや台車の交換といったことなく満洲を横断することが可能になったことである<ref name="inoue22" />。


ウィッテはできるだけ軍事的手段を用いることなく、満洲には経済的に進出しようとする考えであったが、これは決して他国を刺激しないわけではなかった<ref name="2002wada251"/>。ただ、ウィッテ自身が、これ以上の権益拡張を望んでいなかったのも確かである<ref name="yokote29" />。ウィッテにとって計算外だったのは、ロシア帝国が満洲においてさらに権益を拡大させたいという欲求を抑えきれなくなっていたことである<ref name="yokote29" />。冬の4か月間、結氷してしまうウラジオストク港は、軍事関係者の間ではすこぶる評判が悪かった<ref name="inoue23">[[#井上|井上(1990)pp.23-25]]</ref><ref name="McDougall73">[[#マクドゥーガル|マクドゥーガル(1996)pp.73-74]]</ref>。満洲に入ったロシア勢力の視線が、次に[[不凍港]]である旅順へと向かうのは、ある意味、当然のことだったのである<ref name="inoue23" /><ref name="McDougall73" />。
ウィッテはできるだけ軍事的手段を用いることなく、満洲には経済的に進出しようとする考えであったが、これは決して他国を刺激しないわけではなかった<ref name="2002wada251"/>。ただ、ウィッテ自身が、これ以上の権益拡張を望んでいなかったのも確かである<ref name="yokote29" />。ウィッテにとって計算外だったのは、ロシア帝国が満洲においてさらに権益を拡大させたいという欲求を抑えきれなくなっていたことである<ref name="yokote29" />。冬の4か月間、結氷してしまうウラジオストク港は、軍事関係者の間ではすこぶる評判が悪かった<ref name="inoue23">[[#井上|井上(1990)pp.23-25]]</ref><ref name="McDougall73">[[#マクドゥーガル|マクドゥーガル(1996)pp.73-74]]</ref>。満洲に入ったロシア勢力の視線が、次に[[不凍港]]である旅順へと向かうのは、ある意味、当然のことだったのである<ref name="inoue23" /><ref name="McDougall73" />。

2020年7月18日 (土) 02:39時点における版

セルゲイ・ウィッテ
Серге́й Ю́льевич Ви́тте
セルゲイ・ウィッテ(1905年)
生年月日 1849年6月29日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 チフリス
(現、ジョージア (国)の旗 ジョージア トビリシ
没年月日 (1915-03-13) 1915年3月13日(65歳没)
死没地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)
出身校 ロシア帝国 新ロシア大学(現、オデッサ大学
称号 伯爵
サイン

在任期間 1905年11月6日 - 1906年6月5日
皇帝 ニコライ2世

在任期間 1892年2月 - 1892年8月
皇帝 アレクサンドル3世

在任期間 1892年8月30日 - 1903年8月16日
皇帝 アレクサンドル3世(-1894.11)
ニコライ2世(1894.11-)

ロシア帝国の旗 ロシア帝国 大臣委員会議長
在任期間 1903年8月 - 1905年10月
皇帝 ニコライ2世
テンプレートを表示

セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテロシア語: Серге́й Ю́льевич Ви́тте, ラテン文字表記例:Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日ユリウス暦6月17日) - 1915年3月13日(ユリウス暦2月28日))は、帝政ロシア末期の政治家セルギウス・ウィッテの名でも知られ、姓はヴィッテとも表記される。

鉄道会社勤務から政界に登用された異色の経歴をもち、ロシア帝国運輸通信大臣(1892年)、大蔵大臣(1892年 - 1903年)、大臣委員会議長(1903年 - 1905年)を歴任し、1905年10月20日には初のロシア帝国首相(閣僚会議議長)となってロシア初の憲法となる1906年ロシア帝国国家基本法の設計者となった。蔵相としては金本位制の採用やシベリア鉄道をはじめとする鉄道建設などによりロシアの工業化に貢献した。日本清国との外交交渉でも活躍し、日露戦争の講和交渉にはロシア側全権として当たり、日本側の外務大臣小村寿太郎と折衝を重ね、ポーツマス条約成立により伯爵の爵位を得た。彼の著した回想録『ウィッテ伯回想記』はロシア激動の時代の史料として重要である。

イギリスの歴史家、オーランドー・ファイジズは彼について、「1890年代の偉大な財政改革大臣」であり[1]、「ニコライ2世の諸大臣中もっとも賢明な一人」であって[2]、また、1905年におけるロシアの新議会制度の生みの親であるとして叙述している[3]。なお、アメリカの歴史学者、ウォルター・マクドゥーガル英語版は、彼を「ハンティントンやホプキンズ、クロッカー、スタンフォードを1つにしたような人物」と形容している[4][注釈 1]

生涯

1849年6月29日、ロシア帝国の領土でカフカス総督府の置かれたグルジア(現、ジョージア)のチフリス(現、トビリシ)に生まれた。ウィッテの父ジュリアス・クリストフ・ハインリヒ・ゲオルク・ウィッテ(1814-1868)はルター派バルト・ドイツ人で、先祖はオランダからスウェーデン統治時代バルト海沿岸に移り住んできた移民であった。技術者・官吏であった父は、ロシア貴族のエカテリーナ・ファデーエワ(1821-1897、セルゲイの母)と結婚する際、ロシア正教に改宗した[5]。その父は、ロシア有数の大都会であったプスコフで騎士団員となったが、官吏としてサラトフ、つづいてチフリスへと移り住んだ。セルゲイは母親の両親のもとで育った[6]。母方の祖父は、サラトフ知事でカフカス枢密院議員のアンドレイ・ミハイロヴィチ・ファデーエフ(1789-1867)であり、祖母は名門貴族ドルゴルーコフ家出身で博物学者でもあったエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァ英語版公女(1788-1860)であった。セルゲイ(1849-1915)は5人兄弟で、ボリス(1845-1902)、アレクサンドル(1846-1884)という2人の兄とオルガ(生没年不詳)、ソフィア(1849-1917)の2人の姉妹がいた[7][8]。 なお、オカルティストとして知られるエレナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ(1831-1891、ブラヴァツキー夫人)はアンドレイ・ファデーエフとヘレナ・ドルゴルーコヴァ公女を共通の祖父母とする従姉で、セルゲイ・ウィッテの大学時代に交流があった。

大学から鉄道会社へ

セルゲイ・ウィッテ(1880年代)

セルゲイ・ウィッテはチフリスのギムナジウムで学んだが、学問よりも音楽フェンシング乗馬に興味を示した。彼はモルドバキシネフでギムナジウムの上級を修了した[9]1866年にはウクライナオデッサにある帝国ノヴォロシア大学(現、オデッサ大学)の物理・数学科に進み、1870年、トップの成績で卒業した[5][10][11]

ウィッテは当初、理論数学の教授になることを目指しており、研究者の道に進むつもりであったが[12]、周囲からは貴族や上流社会にはなじまない進路であると考えられており、彼の親戚からも良い顔をされなかった。たまたま叔父の知人であった運輸通信大臣のウラジーミル・アレクセイエヴィチ・ボブリンスク伯爵から、それに代わり、鉄道分野での実績を積むよう説得された[12]。ウィッテは、ウクライナ鉄道の事業について実践的な理解を得るため、伯爵の指示でオデッサ鉄道英語版のさまざまな部署で6か月間のトレーニングを行い、訓練期間の終了時に事務所の主任を任された[13]。ウィッテは大学卒業後、切符販売員からスタートして20年間鉄道管理にたずさわり、そのなかで経営者として頭角をあらわしてきた人物である[5]。彼のなかには、科学的合理主義者とロシア的な愛国主義者が同居していた[10]

1875年の後葉、オデッサ鉄道で列車が大破する事件が起こって多くの人命が失われ、事件後、ウィッテは逮捕され、禁固4か月の刑に処せられた。しかし、彼は裁判のなかで、来るべき露土戦争(1877年-1878年)における兵員と軍事資材の輸送に関しては、最大限に力を尽くすことを鉄道側に指示する意志を示し、これがニコライ・ニコラエヴィチ元帥の耳にとまって、禁固2週間とする減刑が言い渡された。彼は、列車運行の遅延を克服するために奮闘し、ダブル・シフト・オペレーションという新システムを考案した[14]

鉄道畑から政界へ

生涯の伴侶となった妻マチルダ
カール・ブッラ英語版撮影(1905年)

1879年、ウィッテは首都サンクトペテルブルクでの役職を引き受け、そこで最初の妻ナジェージダと出会った。翌年、彼はウクライナの中心都市キエフに転居した。彼が1883年に発表した『鉄道運賃の原理』という著作は注目された[15]。この論文は、社会問題について、また君主制の役割についても論じ、政府部内で好評を博した。1886年、彼はキエフに拠点を置くロシア西南鉄道英語版という民間会社の経営者に任命され、このとき能率と収益性を高めたことは夙に知られている。この頃、ウィッテは皇帝アレクサンドル3世と会っており、彼は皇帝の乗る「お召し列車」が高速運行のために2台の強力な貨物機関車を使用する皇帝周辺の慣行に対し、その危険性を警告したため、皇帝の側近との間にはあつれきが生じた。はたして1888年10月に起こったボルキ列車事故英語版で彼の警告は証明されたのであった。その後、ウィッテはオデッサ鉄道運輸局長職にあったとき、運輸通信省の国営鉄道管理局長に抜擢された[12]

1889年、彼は「国民貯蓄とフリードリヒ・リスト」という論文を発表し、ドイツ歴史学派の経済学者フリードリヒ・リストの学説にもとづいて輸入品に正当な関税を課し、外国との競争から国内産業を守り、それを強化しなければならないと主張した[5][10]。ウィッテは、ドイツにおいてリストの政策を実行したのがオットー・フォン・ビスマルクだと考えており、「ロシアはツァーリの権威に、その工業の創出、農業と人口の急速な成長、……要するにいっさいの商業上の意義を負っている」というリストの言葉を特に好んだ[10]。同年、彼は大蔵大臣のイワン・ヴィシネグラツキーロシア語版により大蔵省の鉄道事業局長にむかえられ、1891年までその職を務めた[5][10]。ウィッテ登用を後援したのは皇帝アレクサンドル3世であった。ウィッテは、小規模な鉄道事業の4分の1未満が州の直接管理下にあることが非効率を招いているとし、鉄道事業の国家独占を図り、鉄道路線の拡張と鉄道事業の統制を推進した。ウィッテはまた、政治的なコネや親類縁者からの支援が幅を効かせる人事ではなく、業績や効用から人事考課をおこなう権限も獲得した。

鉄道建設に意欲的な皇帝アレクサンドルは、1882年に全長8,000キロメートルにおよぶシベリア鉄道の建設計画を決定していた[16]。しかし、膨大な建設経費が、この計画の実現を妨げていた[16]。この計画の当初の目的はヨーロッパ・ロシアの人口稠密状態の改善であったが、やがて、清国におけるイギリスドイツの勢力への対抗という動機が加わり、さらに19世紀末に満洲地域の清国人人口の急増に対して既有の領土を防衛するために必要だと考えられるようになっていた[16]

1890年、ウィッテの最初の妻、ナジェージダは死去している[17]1891年、ロシアでは新しい関税法が可決され、20世紀初頭まで保護貿易主義のなかでロシアの工業化が進展した。一方、この年はシベリア鉄道の工事に着手した年でもあった[4]。ウィッテはロシアの工業化に尽力するとともに、それを担う実践的な科学・技術教育の普及のために努力した[4][18]

1892年、ウィッテは劇場で知り合った女性、マチルダ・イワノヴナ(イサコフナ)・リサネビッチに好意を寄せるようになり、ギャンブル狂いの夫と離婚して自分と結婚するよう求めた。マチルダは既婚者だったというばかりではなく改宗ユダヤ人でもあったので、2人の結婚は当時のロシア社会にあってはスキャンダルにほかならず、ウィッテは上流貴族との社交を犠牲にしなけければならなかったが、皇帝アレクサンドルは彼を守った。

蔵相に

シベリア鉄道の建設

皇太子ニコライによるシベリア鉄道起工式(ウラジオストク、1891年)

シベリア鉄道の計画が実行に移されたのは、アレクサンドル3世の計画決定から9年後の1891年のことであった[16]。アレクサンドル3世は、この年の5月、ロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)をシベリア鉄道の起工式に参加させた[16][注釈 2]。皇帝は、皇太子を鉄道建設に結びつけることによって、その建設を確実なものにしなければならないと考えたのである[16]

アレクサンドル3世はセルゲイ・ウィッテを、1892年2月には運輸通信大臣に任じて鉄道建設にあたらせ、ロシアの鉄道網の統制権と関税改革に関する権限とをあたえた。これについては「ロシアの鉄道はおそらく(当時)世界で最も経済的に運営されている鉄道であろう」との評価がある[19]。鉄道による利益はきわめて高く、政府に対し、年間1億ルーブル以上を計上した(会計上の欠陥により正確な金額は不明である)。

皇帝はさらに半年後の1892年8月には均衡財政を重視して鉄道建設に難色を示してきたイワン・ヴィシネグラツキー蔵相を更迭し、ウィッテをその後任にすえた[20]。ロシアでは、1905年まで産業商取引に関する案件は大蔵省の管轄するところであったが、ウィッテは1903年までの11年間蔵相の地位にあった[4]。ウィッテは、予算、財務、通貨の最高責任者として海外貿易、関税、国内交易・産業をその管理下に置いた[4]。ウィッテは、ツァーリ(皇帝)専制のままであっても、鉄道建設による工業化によって、ロシアを強大な国家に変容させることは可能と考えており、また、それを自身の使命であるとも考えていた[20]

ウィッテが蔵相となってまず取り組んだのはシベリア鉄道の建設問題であった[4][10]。彼はシベリア鉄道を「ヨーロッパとアジア的東方との交通の方向における変革」「諸国家間の経済関係の根本的変革」をもたらすものとしてとらえ、ロシアはアジアに近い「大生産者・消費者」として「変革」からの利益をおおいに受けるものと考えた[10]。シベリア鉄道事業推進のため、ウィッテは蔵相となると「シベリア鉄道特別委員会」を設置した[20]。この委員会の議長には、ウィッテの提案にもとづき勅命によって皇太子ニコライが任命された[21][注釈 3]。これは、他の大臣たちとの折衝をスムーズに進めるうえで大きな権限をもち、鉄道敷設にかかわる立法さえ可能であった[20]。しかし、皇帝の後ろ盾がありながらも、このような組織が必要であったということ自体、シベリア鉄道建設にはさまざまな困難がともなっていたのであった[20]。莫大なコストや難工事もさることながら、地主貴族を中心に根強い抵抗が繰り返され、その理由は、鉄道によって東方への移民が容易になればヨーロッパ・ロシアの地価が下がるというものであった[20]

ウィッテは、1892年11月に工事計画の全体像を提案した[10]。これは国家計画そのものとなった[10][注釈 4]。鉄道建設に際し、とくに新しい「商業」学校の創設を含む、産業人材のための教育システムの構築も主張した。そしてまた実際に学校を設立し、北極探検の後援も行った[4]。鉄道建設事業は、建設自体が工業分野での需要を産み出し、工業化の促進剤たりうるのである[10]。シベリア鉄道は、5フィート間隔の広軌で建設され、日本とイギリスが朝鮮半島や中国大陸に建設した鉄道で採用された4フィート8.5インチの標準軌とはゲージ幅が異なっていた[22]。この相違は、のちにロシアと日英両国との間に極東におけるそれぞれの勢力範囲をめぐる軋轢を提起することとなった[22]

1894年、後述するように彼はドイツ帝国との10年間の商業協定をロシアに有利な条件で締結した[10]。ウィッテを取り立てたロシア皇帝アレクサンドル3世は、1894年11月1日(ユリウス暦10月20日)、逝去した[5]。皇帝は、死の床で息子の皇太子ニコライに、最も有能な大臣であるウィッテのことばによく耳を傾けるよう言い残している。

ウィッテの経済政策

シベリア鉄道のウスリー川での建設風景
ウィリアム・ヘンリー・ジャクソン英語版撮影(1895年

ウィッテは1903年まで蔵相として、ロシアの工業化を推進した[5]。シベリア鉄道は国営鉄道であり、鉄道建設を国家資金でつくるには歳入を増大させなければならなかった[10]。彼は私淑するF.リストの学説の影響を受けて、国家市場に積極的に介入する経済政策を採用し、1893年6月の4県での酒(ウォトカ専売制の導入、1894年9月の粗糖税の75パーセント引き上げなどによって財政改革をおこなって歳入を増やす一方、保護関税政策の採用を進めた[5][10][23]外債の募集もフランスにおいて積極的におこなわれた[10]民間企業にも外資導入が奨励された[10]。ウィッテは新皇帝ニコライ2世1894年即位)に対し、国内資本が欠乏しており、防衛準備の強化や鉄道発展のためには巨額な資金が必要であるという状況を訴え、国民の貯蓄をそこにまわす余裕はないので、フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るべきであるとの意見報告を行い、これを進めた[23][24][注釈 5]。ウィッテにとって、外国資本はロシアに不足している「資本、知識、それに企業意欲」を与えるものとされ、ロシアの国民文化にも好影響を及ぼすと期待された[10]

1899年発行の5ルーブル金貨

ウィッテはまた、外資導入のため、通貨改革を1897年より開始し、金本位制を確立してルーブル紙幣への自由な交換を導入した[10][24]。1897年1月、ウィッテは皇帝隣席のもの財務委員会をひらいて新しい金貨の鋳造開始を決定し、8月の勅令でロシア国立銀行が発券銀行の役割を与えられ、金保有量の2倍を限度として兌換紙幣を発行したのである[10]。この幣制改革により、為替相場の安定がもたらされ、外資流入に好適な環境がつくられ、投資活動が活発化して外貨が大量に増加した[10]20世紀初頭の段階でロシア経済への外国投資は全投融資の4割に達し、ドイツ・フランス・イギリス企業資本を投下していた[24]。ウィッテが主導した、こうした国家資本主義的な経済メカニズムのことを「ウィッテ体制」と呼ぶ[15]

ウィッテは蔵相就任後、早々にドイツとの通商関係の処理に取り組んだ[10]。ドイツは、1891年のロシアの高関税政策に対して不満の意を表明しており、1893年、最恵国条款にもとづく協定関税を与えるのと引き替えにドイツにも最恵国待遇を与え、77品目について関税を大幅に引き下げよう求めた[10]。ウィッテは、これに対し、譲歩しうることは少ないとして、ロシアに特恵関税を適用しないのであれば、1891年関税をさらに上回る高関税を適用するとの対抗措置を講じた[10]。これは、独露双方で交互に関税を引き上げる貿易戦争に発展した[10]。しかし、これによって双方とも打撃を受けたため、妥協が成立し、1894年2月、独露通商条約が結ばれた[10]。この商業協定は、ロシアがドイツに穀物を輸出し、ドイツがロシアに機械類器具を輸出するという安定的な経済関係の構築につながった[10]。こうして、東方へ向けた巨大鉄道建設については、資金をフランスが、機械をドイツが担う形で進行することとなった[10]

比較的停滞していた数年間ののち、ウィッテを中心に1893年に再開された鉄道建設が経済成長の牽引役となった[25]1895年から1899年の間に鉄道網は年平均3,000キロメートル以上、その後の5年間で年平均2,000キロメートルも敷設・延伸され、とりわけ、シベリア鉄道の建設は重要であった[23][25]。1890年代の新線建設は国営鉄道12,800キロメートル、市営鉄道は9,600キロメートルにおよんだ[26]。鉄道建設は、鉄鉱石石炭木材その他の資源ならびに重機械工業製品の生産を促進し、国民経済の各産業分野が発展した[5][25]。ロシアの銑鉄生産量は1890年代の10年間に3倍となり、1900年にはフランスオーストリア=ハンガリーを抜いて世界第4位となった[5][23][26]。なお、鋼完成品のうち鉄道のレールは90年代初頭の約60パーセントから1899年には約45パーセントへと低下し、鉄鋼業は鉄道需要からしだいに自立する傾向を示している[26]。石炭産業も南部のドンバスを中心に急速に成長し、採掘量は90年代に3倍に急増し、外国資本による新会社が次々につくられた[5][25][26]石油産業の成長はいっそう顕著で、バクー油田を中心に石油生産は世界の半分を占めるに至った[5][23][26]。この時期のロシアの重工業製品生産は2.3倍増となって、工業成長率は当時世界最高水準の年8.1パーセントにおよんだ[5][25]。ただし、国民一人あたりの生産量に直すと、銑鉄・石炭いずれも西欧諸国(英・米・・独・仏)に遠く及ばない水準にとどまっていた[26]。とはいえ、軽工業の進展も著しかったので、1887年に約131万人であった全産業労働者数は1897年には約210万人へと増加している[26]

ウィッテは健全財政の確立に努め、信用制度の改善やヨーロッパの経済機構との連携を進め、各種の増税の一方で近代化に資することのない国家歳出はすべて削減した[4]。また、1897年に企業労働時間を制限する法律を制定し、1898年には商業税と産業税の改革を行った[26][27][注釈 6]。一方、農業分野では改革が遅れたため、農民の全人口に占める農奴の割合は増加した。彼は「農業問題特別審議会」を設置し、自ら同審議会の責任者として土地改革案を作成した。農村共同体における集団責任の廃止と農民の帝国外部への再定住の促進にかかわる議論は3年におよび、これは、後にピョートル・ストルイピン時代の土地改革の基礎になったといわれている。1902年、ウィッテの支持者であるドミトリー・シピャーギン内務大臣が暗殺されている。ウィッテはロシア経済の近代化を保持するため、農村産業の必要性にかかわる特別会議を招集し、主催した。この会議は、将来の改革のための推奨事項を提供し、それらの改革を正当化しうるデータをまとめるためのものであった。1900年まで、製造業の成長は、それ以前の5年間の成長の4倍に達し、それ以前の10年間では6倍もの成長速度を実現し、工業製品の対外貿易額はベルギーのそれにほぼ相当した[28]

ウィッテの政敵であったヴャチェスラフ・プレーヴェ

政治的には、外国からの投資をロシアに呼び込むために、新しい状況に現実的に応じ、ある程度の専制権力の抑制をも視野に置いていた。基本的にウィッテ自身は、アレクサンドル3世・ニコライ2世両皇帝の傅育官であったコンスタンチン・ポベドノスツェフと同様に専制政治を志向していたが、保守主義者である一方、現実的・合理主義的なナショナリストでもあった[5]。即位当初はニコライ2世もウィッテら諸大臣の助言と忠告にしたがっていたが、あくまで王権神授説を奉ずるニコライ自身やその側近とは齟齬をきたすようになった[29]。東アジア情勢が混迷をきわめ、諸大臣の意見が分かれるようになると、皇帝ニコライは危険な意見を傾聴するようになった[29]

ウィッテは、ロシアの工業化は経済のみならず政治上の課題でもあるとみなしていた[30]。第1には、社会改革遂行のための資産を蓄え、農業の発展も可能にすること、第2には貴族たちを政治の場から徐々に締め出して資本家や実業家に交替させていくこと、そのためには工業化と金融改革が必須の条件になるのであり、後発資本制国家のロシアも「世界不易の法則」にしたがって英仏などのような資本主義へと移行していくべきであるという考え方に立っていた[30]。それに対し、シピャーギンの後任内相であるヴャチェスラフ・プレーヴェは、みずから「ロシア原則の断固たる擁護者」として行動することを自認し、「ロシアにはロシア自体の個別の歴史とそれに由来する特別な体制がある」と主張して、「未熟な若者や学生、あるいは革命家たちの圧力による急激な改革は許されるべきではない」としてウィッテと鋭く対立した[30]。そして、この対立は外交政策をめぐっても繰り返されたのである。

三国干渉と露清密約

ウィッテの極東政策における当初の目標は、日本および中国との貿易の平和的な拡大であり、日本との協力関係も数年の間はかなり良好なものであった[31]1894年、日本と清国のあいだで日清戦争が勃発したが、当時のロシアで日本の勝利を予想した者はほとんどいなかった[20]。しかし、日本は戦闘において連戦連勝で、1895年の日清講和交渉の場でも日本側が遼東半島の割譲を要求し、4月17日に調印された下関条約でも日本への割譲が定められたことは、ロシアにとって意外な出来事であった[20]。ここで、ロシアとしては清国の弱さに着目して、ロシアにとって不可欠な不凍港をまずは獲得するという道もありえたし、日本の強さに着目して日本の遼東半島獲得をまずは何とかして阻止するという選択もあった[20]。言い換えれば、近い将来における極東でのパートナーを日本とするか、中国とするかという選択の問題でもあった[20]。ウィッテは1895年3月の特別会議で、従来の日本接近論を放棄し、ひとたび日本の遼東半島獲得を認めれば、これは満洲モンゴルへの日本の膨張の足がかりとなり、やがてロシアの極東支配を脅かす力になるであろうと主張した[20][31]。もし遼東半島放棄が実現されれば、その憂いはなくなるし、清国からも感謝されるであろう、とりわけ、露清国境近くを通る鉄道建設にとってはきわめて好都合であると考えたのである[20][31]。新帝ニコライ2世は、どちらかといえば不凍港獲得を優先し、日本との友好関係を維持すべきであるという考えに傾いていたが、ウィッテの意見を抑えるだけの力はまだなかった[20]

戴冠式でのニコライ2世とアレクサンドラ皇后マリア皇太后(1896年)
1898年ラウリツ・トゥクセンによる作品

結局、ウィッテの意見が通り、外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーフランス・ドイツに呼びかけて三国干渉を主導した[20][29][31]。これは、東アジアにおける提携先として日本ではなく清国を選んだことでもあるが、日本国民からの非常に強い憤りを買った反面、清国からは実際にその見返りももたらされた[20][31]。同年6月、ウィッテは清国領の満洲を横断してウラジオストクまで通じる鉄道の建設権を獲得しようと画策し、清国が日本への賠償金支払いのための借款をパリの銀行から得るのに際し、ロシアが利子元本償却の保証を与える協定を結んだ[31]。そして、1895年末にはそこから発展して資本金600万ルーブルの露清銀行を設立し、さらに翌1906年には、ニコライ2世の戴冠式のためにロシアを訪れた李鴻章との間に露清密約(李・ロバノフ密約)を結ばせ、清国に東清鉄道敷設権を認めさせることに成功したのである[20][29][31]。このとき、李鴻章には莫大な賄賂が贈られたという[31]。東清鉄道は、満洲を横切ってウラジオストクまで通じる路線で、ヨーロッパ・ロシアと沿海州を結ぶ鉄道の距離が大幅に短縮されるだけでなく、アムール川沿いの工事が技術的に困難だとされた当時にあっては、この利権の獲得は鉄道建設を大いに促進する意味合いを有していた[20]。さらにこのとき、ウィッテは李鴻章を抱き込んで、日本を対手とする攻守の密約も結んでいる[32][注釈 7]。1896年末、露清銀行によって設立された東清鉄道会社には、鉄道沿線の土地の管理権と検察権が与えられた[31]。ここで注意しておかなければならないのは、東清鉄道のゲージ幅がシベリア鉄道と同じ5フィートの広軌だったことで、これにより、シベリア鉄道を走ってきた列車は乗り換えや台車の交換といったことなく満洲を横断することが可能になったことである[12]

ウィッテはできるだけ軍事的手段を用いることなく、満洲には経済的に進出しようとする考えであったが、これは決して他国を刺激しないわけではなかった[29]。ただ、ウィッテ自身が、これ以上の権益拡張を望んでいなかったのも確かである[20]。ウィッテにとって計算外だったのは、ロシア帝国が満洲においてさらに権益を拡大させたいという欲求を抑えきれなくなっていたことである[20]。冬の4か月間、結氷してしまうウラジオストク港は、軍事関係者の間ではすこぶる評判が悪かった[33][34]。満洲に入ったロシア勢力の視線が、次に不凍港である旅順へと向かうのは、ある意味、当然のことだったのである[33][34]

1897年、ドイツが清国に膠州湾の租借を要求すると新しく外務大臣となったミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフはロシアの旅順占領を提案した[20][29]。『ウィッテ回想記』によれば、ウィッテは10月の御前会議で以下のように主張したという[35]

わが帝国は三国干渉で中国の領土保全を主張して、日本に遼東半島を放棄させたが、旅順と大連はその中に含まれている。その際、ロシアは中国の領土を占領しようとする日本のいっさいのもくろみに対して、中国を防衛する義務を負う秘密防衛同盟を中国と結んでいる。そういう約束をしておきながら、日本と似たような占領をすることは言語道断な悪辣な手段である。中国ばかりでなく、日本との関係を悪化させる。

ウィッテはこのように述べて、清国の現状維持を図り、露清の友好関係を維持することがロシアにとって最善だと説いた[20][35]。同席した海軍提督も旅順口海軍基地としては立地上の問題があることも指摘したが、皇帝はムラヴィヨフ外相の意見を採用し、結局、清国に対しては1898年に「旅順・大連租借に関する露清条約」を結ばせて、遼東半島を租借した[20][29]。ムラヴィヨフは、ニコライ2世が東方進出に意欲的であるばかりでなく、常に自信あり気に振舞うウィッテに反感を感じていることを見てとり、旅順獲得を進言したといわれている[20][注釈 8]

いずれにせよ、このことにより、日本国民の対露不信感がいっそう増大したのみならず、三国干渉以来築かれてきたロシアと清国の友好関係もまた急速に冷え込まざるをえなかったのであった[20][31]。一方、英露両国は、北京と奉天をむすぶイギリス資本の京奉鉄道中国語版の借款問題をめぐって対立し、最終的には1899年4月にイギリスの長江流域、ロシアの長城以北での鉄道敷設権をそれぞれ原則的に認め合う英露鉄道協定(スコット・ムラヴィヨフ協定)を結んで妥協したが、ウィッテはこの協定にはあくまでも反対の姿勢を貫いた[36]

万国平和会議

ハーグで開かれた第1回万国平和会議(1899年)

1899年デン・ハーグで開かれた万国平和会議(第1回)は、戦時国際法における諸問題を取り扱い、戦争放棄を確定し、また、軍備制限や紛争の平和的解決を論議の対象としたことによって、戦争と平和の問題を人びとに考えさせる契機となった[37]。この会議は、欧米の理想主義的な平和主義者を引きつけて、結果としては平和運動にひとつの方向性をあたえたともいわれている[37]。この会議を主唱したのはニコライ2世であったが、実のところ、皇帝自身もミハイル・ムラヴィヨフ外相も決して平和主義者ではなく、実のところ、理想主義とも無縁であった[37]。また、平和のために国際会議を開くという発想も彼らのものではなく、実はウィッテの発想によるものであった[37]

ウィッテは、後発資本主義国として国家財政の厳しいロシア帝国がヨーロッパ正面ばかりではなく、極東での軍備競争にも打ち克っていかなければならない情勢にあって、一定期間どの国も軍備増強に走らないような仕組みを考え、さらに、これによりロシアは相手国の理想主義者や平和主義者を味方にすることができると考えたのであった[37]

極東での紛争

『ウィッテ伯回想記』によれば、1900年、清国で義和団の乱(北清事変)が起こったとき、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣は、その知らせを聞くや膝をたたいて喜んだという[38]。帝政ロシアは7月3日黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始した(露清戦争)[39]。ロシア軍は、8月3日にハルビンを制圧したのを皮切りに10月2日には奉天を制圧し、ほぼ満洲全土を占領した[39][40][41][42]。しかし、ウィッテは、ロシアにあっては、満洲をあからさまに領有することよりも、鉄道敷設によって経済的利益をあげようとする勢力を代表していた[43]。なお、この間、ムラヴィヨフ外相が死去し、新任の外相にはウラジーミル・ラムスドルフが就任した[注釈 9]

日本では、今後ロシアに対してどのような行動をとったらよいか、真剣な討論が交わされ、維新世代の伊藤博文井上馨が日露協商論に立っていたのに対し、第二世代の桂太郎小村寿太郎らは日英同盟論に立っていた[44]。日英提携が模索されるなか、伊藤は1901年9月、日露提携の可能性をさぐってサンクトペテルブルクへ向かった[45][46]。伊藤は、満韓交換交渉を眼目として対露交渉をつづけたが、ウィッテ以外のロシア側首脳はみな強気で難航した[47]。伊藤の意見に、ロシアで最も好意的な反応を示したのはウィッテであった[48]。ウィッテはこのとき、次のように述べて伊藤の提案を受け容れるよう説いていた[48]

韓国を放棄すれば、われわれは日本との常なる誤解の素を取り去り、いつも攻撃で脅かす敵を、同盟国とはいわないまでも、このように苦労して得た土地を再び失わないよう、われわれとの友好関係を維持しようとする隣国に変えることができよう。ロシアと、目下のところ、われわれにとって海から近寄りがたい日本との間には、新しい陸上の国境ができるだろう。この国境からわれわれは常に日本を脅かし、将来、鉄道の建設が十分に完成し、わが国の北中国における影響力が確立したときには、状況が許せば、再び韓国を支配することすら考えられよう。

ウィッテは、ロシア海軍を最初からあまり当てにしておらず、仮に日本に韓国を譲ったとしても、ロシアが鉄道を通じて満洲での地歩を固めさえすれば、将来的にロシアに不利になることはないと考えていたのである[48]。しかし、ウィッテの意見はロシア上層部には受け容れられず、彼の和解提案が見送られたのと入れ違いに日英同盟交渉は急速に実現に向かっていった[48]

1902年1月、日本とイギリスはロシアへの対抗手段として日英同盟を結んだ[45][49]。その知らせを聞いたウラジーミル・ラムスドルフ外相は少なからず動揺をみせたといわれる[50]。日英同盟に対するロシアの最初の反応は、同年3月のフランスとの共同声明であった[48]。それは、日英同盟条約に含まれる、極東における現状維持と清韓両国の独立の保持に、ロシアもフランスも賛成の意を表明するというものである[48]。ロシアとしては、日英同盟の締結を契機として極東に露仏同盟に敵対的な国際的枠組みが生まれることを強く警戒したのである[48]。ロシアは一方で清国との交渉を進め、同年4月に満洲還付条約を結んで3段階に分けてロシア軍を満洲から撤兵させることを約束した[51][52][53]。しかし、第2次撤兵以降の約束は果たされず、そのため日本やイギリスとの関係はきわめて悪化した[51][52][53]。ウィッテ自身は、清国におけるロシアの利権獲得は鉄道利権に限るべきとする見解をつねづね表明し、それ以上の領土・権益を求めることには反対してきたが、満洲撤退条約の規定そのものが満洲政策の挫折と受け止められた[48]。そして、ウィッテこそロシアの極東政策の推進者であるという認識がロシア国内では抜きがたく定まっていたため、彼の国内での地位もまた大いに揺らいだのである[48]

陸軍大臣のクロパトキンはもともと、ロシアの勢力圏が保障されるまではロシア軍の満洲駐留を継続すべきであるという意見であり、その点ではウィッテやラムスドルフ外相とは対立していた[54]。強硬派による満洲撤兵反対論はきわめて強固であり、ウィッテもラムスドルフも結局、北満洲の占領継続はやむをえないという見解に落ち着くほかなかった[54]

一方、ウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンの3大臣は日本を刺激しなければ戦争は回避できるという考えでは一致していた[51]。このときウィッテが最優先と考えたのは、門戸開放を唱えてロシアの満洲占有を厳しく批判するアメリカが日英同盟の陣営に加わらないことであった[55]。なお、ウィッテは、1902年夏、サンクトペテルブルクを訪問した元老の松方正義と会談しており、日露の関係改善について協議している[56]。クロパトキンも日本軍との対決は極力避けるべきとの考えで、1903年の訪日時には桂首相らと会談した。

蔵相解任

ウィッテはロシア国内に飢饉が広がっていることもあって日本との戦争には強く反対した[51][57]。クロパトキンもまた、他のロシアの武官たちが日本の軍事力をきわめて過小評価しているのに対し、1903年には認識を改めて、日本軍は強力であり、攻撃に踏み切る可能性もあると考えるようになっており、南満洲地域の放棄さえ主張するようになっていた[58]。しかし、ウィッテの政敵であったヴャチェスラフ・プレーヴェ内相や強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフ元近衛士官らの策動によって彼らの主張は退けられた[51]。日本との戦争を避けるために慎重な極東政策を支持していたウィッテやラムスドルフらの発言権は弱まり、極東における軍備増強を唱えるベゾブラーゾフを中心とする「ベゾブラーゾフの徒党」が皇帝ニコライ2世の信任を得て勢力を拡大させた[51][53][56][注釈 10]。ベゾブラーゾフが極東ロシアの軍備増強を強く主張したが、クロパトキンはこれに反対した。プレーヴェはこのときベゾブラーゾフに接近したが、それはウィッテ追い落としのためには彼が必要だったからである[54]

内政面では、ウィッテは農村の経済問題をめぐってプレーヴェ内相との深刻な対立関係にあった。回想録によれば、ウィッテはゼムストヴォ代表の報告を内務省批判へ向けようとした[60] 。土地制度改革に関する政治的対立の中で、プレーヴェは彼の存在を「ユダヤフリーメイソンの一部による陰謀」だと非難した[61]ヴァシーリー・グルコ英語版によれば、ウィッテは優柔不断な皇帝を未だ支配していたのであり、ウィッテの反対者たちは今こそ彼を取り除く好機であると見定めたのである。

盟友ウラジーミル・ラムスドルフ

1903年8月、皇帝ニコライ2世の専断により、ウィッテ蔵相・ラムスドルフ外相およびクロパトキン陸相の預かり知らぬところで旅順に極東総督府が設置され、ベゾブラーゾフ一派のエヴゲーニイ・アレクセーエフ関東州駐留軍司令官が極東総督ロシア語版に任じられ、同月16日、ウィッテは蔵相を解任された[51][53][56]

ウィッテには大臣委員会議長への転出が命じられ、1905年10月までその職にあった[56]。これは一見、昇進のようにもみえるが、内閣制度が確立していない当時のロシアにあっては役割の限定された閑職であり、実際のところ失脚にほかならなかった[56]。ウィッテの蔵相解任は政敵の圧力の下で行われたことであることは確かなことであるが、しかし、歴史家のニコラス・ヴァレンタイン・リアサノフスキー英語版とロバート.K.マッシーは、ロシアの対韓国政策についてウィッテが反対したことが失脚につながったとみている[62][63]

ウィッテの失脚は、伊藤博文や松方正義といった日本の対露協調派に大きな衝撃をあたえた[56]。伊藤や松方はウィッテを日本の立場を理解する知日派とみなしており、彼らもウィッテとならば朝鮮・満洲をめぐる日露間の利害対立も平和的に解決できるものと信じていた[56]。その彼の突然の失脚は日本政府内の対露強硬派を勢いづかせる結果になった[56]。ウィッテの蔵相解任は、以後のロシアの極東進出が軍事力になるものであろうことを示唆していた[56]

ニコライ2世自身は日本との戦争は望まなかったが、その無定見さによりロシアの極東政策は混乱の度を深めた[53][54]。1903年10月8日は本来、満洲還付条約に示された第3次撤兵の期限であったが、ロシアはそれを無視して奉天城を占領している。駐日ロシア公使ロマン・ローゼンと外務大臣小村寿太郎との交渉も不調に終わり、日本では1904年1月16日御前会議で開戦方針が決定された[64]。ロシア側は、2月8日の御前会議で、ラムスドルフ外相が戦争を避けるためにあらゆる措置を講ずるべきであると説いたのに対し、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ英語版大公とクロパトキン陸相は「満洲への戦争拡大を避けるために漢城より北方への日本軍の上陸を認めてはならない」と主張した[65]。アレクセイ大公は日本海軍の出動はないと考えていたのに対し、クロパトキンは日本軍は朝鮮半島に上陸する前にロシア艦隊を攻撃するであろうと予想した[65]。はたしてその日、日本軍は仁川と旅順口外でロシア太平洋艦隊に奇襲攻撃を仕掛けていたのである[35]

日露戦争と講和条約

戦争と革命

血の日曜日事件」(1905年)
イワン・ウラジミーロフロシア語版の作品

日露戦争はロシアにあってはきわめて不人気な戦争であった[66]。1904年、内相プレーヴェはサンクトペテルブルクで馬車もろともに爆殺された[67]。ウィッテは、増大する市民の不安に対処するため、政府の意思決定のプロセスに参加することを再び許された。激化する対立に直面した公爵ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー内相とセルゲイ・ウィッテが協議し、こののち皇帝ニコライは1904年12月25日、きわめて漠然とした約束ではあったが改革の「ウカセ英語版(ロシア帝国勅令)」を発した[68]。しかし、1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件はロシア社会に大きな衝撃と混乱をもたらした[69]。とくに皇帝専制主義を支えたロシア民衆思想におけるツァーリ信仰は大きなダメージを受けた[69]。ウィッテは請願デモの指導者であったゲオルギー・ガポン神父に500ルーブル、250ドルに相当する金銭を与えてロシアから出国させた[70] 。この事件に対する抗議のストライキがロシアの主要都市において波状的に繰り返され、専制打倒の政治要求も掲げられた[69]

ウィッテは人びとの要求に応えたマニフェスト(詔書)を政府が発するよう説いた[71]。改革のねらいはイワン・ゴレムイキン、およびウィッテの指導力の下でゼムストヴォ(地方自治体)や地方議会の代表から選任された委員会によって、より詳細に語られた。3月3日、皇帝は革命家を非難した。ロシア政府は、法令の遵守を訴え、これ以上の扇動を固く禁止することを表明する文書を発行した[72]。この年の春までに、新しい政治システムがロシアで形成され始めていた。日本との戦争を終結させる請願運動が2月から7月まで相次いだ。5月には最初のソヴィエト(労農評議会)が成立し、6月には戦艦ポチョムキンの反乱が起こった。6月以降はまた、農民騒擾やストライキが頻発した。

ポーツマス条約の全権に

日露戦争で日本の優位が決定的になるとウィッテはニコライ2世に再び用いられ、1905年7月、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側の首席全権としておもむき、交渉に当たることとなった[73]

ポーツマスでの講和交渉に臨む日露代表団(1905年)
テーブル向こう側左からコロストウェツロシア語版ナボコフロシア語版、セルゲイ・ウィッテ、ローゼンブランソンロシア語版、手前左から安達峰一郎落合謙太郎小村寿太郎高平小五郎佐藤愛麿

ウィッテは皇帝より、寸分の領土の割譲も一銭の賠償金の支払いも認めてはならないという訓令を受けていた[73]。また、何が何でも講和をめざすべきではないとも訓令されていた[74]。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった[75]大阪毎日新聞特派員に対してウィッテは「露国はなお依然強盛たるを失わず、しかして日本は従来信ぜられたるほどに優勢というべからず、平和談判について露国は現時においては未だ屈辱的条件を承認するあたわず」と述べた[76]。交渉では、ウィッテはタフ・ネゴシエーターとして見事な外交手腕を発揮し、勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続が不可能なほど疲弊していることを見抜いて日本側を翻弄し、損失を最小限に留めることに成功している[73]。ウィッテは、領土や賠償金は完敗した国が支払うべきものであり、ロシアは余力があるのだから支払う必要はないと小村ら日本側の要求を突っぱねた[75]

ロシアの財政事情を知悉していたウィッテは、財政立て直しのことを考えると、これ以上戦争を継続することは軍事的には可能であるとしても、財政上も、また、革命への熱気が冷めない国内情勢の面からいっても継戦は困難とみていた[75]。したがって、可能な限り有利な条件での合意を目指したが、一方でロシア国内では主戦論が再び持ち上がっていることにも留意しなければならなかった[75]。ウィッテは開戦に至る過程でも、皇帝周辺の冒険主義的な外交政策に批判的だったので、日本との講和交渉をまとめるのに心理的抵抗感がなかったとみられる[74]。ある意味では、ウィッテを全権に選んだ時点で、ロシアは暗黙のうちに一定の妥協をおこなうことを織り込み済みだったとも考えられる[74]。ウィッテは欧米金融資本の期待感とアメリカ合衆国の世論をうまく味方につけ、自国に有利な講和条件を獲得したのだった[15]。彼の回想録には、以下のような記載がある[77]

ロシアが革命の危機を切り抜け、ロマノフ王朝を安固な位置におくには、どうしても2つの問題を解決する必要がある。1つは数年間資金の逼迫をきたさないだけの外債を成立させること、もう一つはすみやかに軍隊の大部をザ・バイカルからヨーロッパ・ロシアに帰還させることである———というのが、当時私の抱懐していた意見であった。

日露両国は結局、1905年8月、ロシアが樺太サハリン島)南部を日本に割譲することで合意した(ポーツマス条約[73][75]

ウィッテはまた、東清鉄道南満洲支線(のちの南満洲鉄道)を譲渡する意向を示したが、譲渡範囲はあくまでも日本の野戦鉄道提理部がゲージの縮小を完了した区間のみとし、遼東半島からハルビンまでの譲渡を求める日本側と対立した[74][76]。結局、これもウィッテの言い分が通って、日本軍が実効支配する長春・旅順間が日本に引き渡された[74][76][注釈 11]。ウィッテ本人は樺太全島を日本に譲渡するかわりに、償金を支払わないかたちで講和を結ぶことを望んでいた[77]。日露戦争でロシア財政が破綻しつつあり、ロマノフ朝が革命の波を乗り越えていくためにこそ、新たに外債を得る必要があると考え、そのためには賠償なしの講和をどうしても実現させなければならないと考えていた[77]。彼は本国政府に、樺太も賠償金も両方とも拒否して戦争を継続するというのでは、欧米の世論はロシアに不利になってしまうと説得しているが、それが無賠償講和のためならば樺太を日本に割譲してもよく、欧米金融資本の関心の薄い樺太に固執すべきではないという考えからだった[77]。合意成立後、会見に現れたウィッテは「勝った」と叫んだが、合意内容をウィッテから聞いたニコライ2世は、その日の日記に「終日頭がくらくらした」と書き記している[73][78]。しかし、皇帝もまた数日して周囲の反応をうかがい、合意内容を了承したという[74]

この外交的成功ののち、ウィッテは皇帝に手紙を書き、そのなかでロシアの政治改革の必要性が緊急なものであることを強調した。彼はスヴャトポルク=ミルスキーの後任内相であるアレクサンドル・ブルイギンの提案には不満を持っていた。露暦8月6日の詔書では下院は諮問機関としての役割しか持たなかった。そして、議員は直接選挙ではなく4段階で行われ、選挙権に階級・財産による制限を設けていたため、知識人や労働者階級の多くが排除されていた。

ウィッテは渡米に先立ってフランスやアメリカの金融資本家の意向をただしていた[77]。同盟国フランスからは、講和後の外債なら応じてもよいとの返答を得ていた[77]。ウィッテはポーツマスからの帰路、フランスに立ち寄って借款を取り決めるという離れ業を行ってみせた[15]。そのため彼は、ロシア第一革命と対日敗戦の苦境を金貨で救ったといわれる[15]。ウィッテは9月末にサンクトペテルブルクに帰還し、その翌日にフィンランド湾の保養地で休養中だったニコライ2世のところに出向いた[79]。皇帝は、ウィッテのポーツマスでの交渉を称えて伯爵の称号を授けた[79][80]。しかし、人びとはウィッテに「半サハリン伯爵」という新しいあだ名をつけたという[80]。平和の到来は、ロシアの民衆にとっては喜ばしいことであったが、講和条約に反対した右派のなかには日本への南サハリンの割譲はウィッテの失策であると断じる者もあった[79][注釈 12]

なお、ロシア帰還後、ニコライ2世がウィッテには内緒で7月にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とのあいだでビョルケ密約英語版を結んでいたことを知ったウィッテは、ラムスドルフ外相と協力してドイツとの同盟が発効しないよう図った[82][83]。この密約は、ヨーロッパの1国からドイツ、ロシアのいずれかが攻撃を受けた場合、他の1国は陸海軍の全力をあげてヨーロッパで援助をおこない、講和も共同でおこなうというものであり、ウィッテとラムスドルフは、この密約が露仏同盟の条項に違背していることを指摘したのである[82][注釈 13]。この件については、もし皇帝がウィッテとラムスドルフの議論を聞き入れなかったら、「ヨーロッパ史全体そして世界史全体が異なったものになったかもしれない」という議論がある[83]

初代首相に

十月詔書

ポーツマスより帰ったウィッテは、6月以降各地で起こった農民騒擾やストライキ、ことにストライキは10月にはゼネストに発展するなど、革命に揺れる国内を収拾すべく行動した[84]。労働者のストライキをブルジョアジー知識人も支持しており、彼らに共通した政治的要求は憲法制定会議の召集、さらには国会(立法議会)の開設であった[85]。この間、暴動を鎮圧するために帝国軍が出動したのは2,000件におよんだ。しかし、皇帝はこの件については無反応・無感覚で、愛息アレクセイなど家庭のことにかまけており、この年の秋、ほぼ毎日狩りをして過ごした[86]。ウィッテは、ロシア国家が革命による大変動の瀬戸際にあることを皇帝に語った。トレポフは皇帝より革命活動を停止するために抜本的な措置をとるよう命じられた。

「1905年10月17日」(「十月詔書」の出された日)
イリヤ・レーピンの作品
皇帝ニコライと区別して「背の高いニコライ」と呼ばれたニコライ・ニコラエヴィチ

10月、時局打開の対応を上奏する機会を得たウィッテは、10月ゼネストなど現下の大混乱のもとでは、ひとつには改革を実行すること、さもなくば、軍人に独裁権をあたえて革命に徹底的な弾圧を加えること、どちらかしかないとニコライ2世に二者択一を迫った[84][85]。後者は実際にロシア国内の極右勢力が主張していた見解だったが、ウィッテ自身は前者を好しと判断していた[84]。ウィッテがこうした思い切った行動に出たのは、複数の政府高官に同調者がいたためであり、なかにはウィッテに改革のための出馬を要請した人物もいたのであった[84]。皇帝は、ウィッテの進言に対して態度を明らかにせず、ウィッテを大臣会議議長(首相)に任命したいという希望を述べた[85]。軍事独裁に関しては、皇帝の従叔父にあたるニコライ・ニコラエヴィチ大公が唯一と言ってよい独裁者候補であったが、革命の動乱を軍事的に鎮圧するには兵力不足であると明言し、候補から降りた[84]

ウィッテは、自分の政治プログラムが承認されるのであれば首相に就任することもやぶさかではないとして、事前にウィッテ自身の案を審議するための御前会議を開いてほしいと要請し、御前会議ではウィッテの改革案が採択された[85]。しかし、ニコライ2世は裁可せず、当日の夜に皇帝から相談を受けた保守政治家のイワン・ゴレムイキンアレクサンドル・ブドベルクロシア語版は若干の修正を加えるよう進言した[85]。それを聞いたウィッテは、無修正での承認でなければ首相就任を引き受けないと宣言した[85]。帝室にあって独裁者候補と目されたニコライ・ニコラエヴィチ大公もまたウィッテ案に賛成し、これに署名しなければ自死すると半ば脅して、署名するようニコライ2世を説得した[85][87]。結局、皇帝ニコライ2世はウィッテの提唱する改革路線に従うほかなかった[8][84]

ウィッテの改革案は、民主的な選挙権の行使を通じて選ばれた立法議会(帝国ドゥーマ)の創設、市民的自由の付与、 内閣政府と「憲法秩序」の樹立という内容であった[86]。自由主義改革の政治プログラムを基本に含むこれらの要求は、自由主義者を宥めることによって政治的左翼を孤立させようとする試みであった[86]。ウィッテは弾圧は一時的な解決方法にすぎず、危険なものであることを強調した。というのも、彼は軍隊が、その忠誠心がまさに今問われているのであり、その軍隊が大衆に向けて使用されたとき、すべてが崩壊する事態さえありうると信じたからであった[86]。皇帝の軍事顧問もほとんどはウィッテに同意し、サンクトペテルブルク総督のアレクサンドル・トレポフも宮廷においてかなりの影響力を行使した。

ところが皇帝は、元「鉄道書記官」で「実業家」出身の官僚によって専制的な統治を放棄するよう強いられたことを恥辱に感じていた[86][注釈 14]。ウィッテは、これはニコライ2世の宮廷が一時的な譲歩として改革案を受け入れたにすぎず、革命騒ぎが収まれば再び「独裁に戻る」だろうと後に語っている[88]

アレクセイ.D.オボレンスキー公

同月、ウィッテとアレクセイ・ドミトリエヴィチ・オボレンスキーロシア語版十月詔書を起草し、そのなかで国会の開設、立憲君主制の導入、市民的自由などが宣言された[84][89][90][91][92]。詔書は皇帝の名で発せられ、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由を認め、予定されていたドゥーマ(議会)の選挙を多くの国民が参加できるよう改め、ドゥーマの性格もアレクサンドル・ブルイギン内相の案のような諮問機関ではなく立法機関(国会)とするなどの内容であった[73][84]

その結果、ロシアにはヨーロッパ内閣にあたる統合合議制政府(閣僚会議)が創設され、最初の議長にはウィッテが任命された[89][90]。これは、事実上の帝政ロシア初代首相であり、彼はその立場で自由主義的諸改革を推し進めたのである[15]。ウィッテはこうして、第一次ロシア革命をひとまず収拾させたかにみえた。

ウィッテ内閣

10月、ウィッテは国の最初の内閣政府をまとめる任務を課され、彼は自由主義者たちにいくつかの腹案を提示した。農業大臣にイワン・シポフ英語版、通商産業大臣にアレクサンドル・グチコフ、司法大臣にアナトリー・コニ英語版、教育大臣にエフゲニー・ニコラエヴィチ・トルベツコイ英語版という組閣案であり、パーヴェル・ミリュコーフや公爵ゲオルギー・ルヴォフにも大臣職を用意した。 しかし、これら自由主義者はほとんどウィッテの政府に加わろうとしなかった。 ウィッテは「公衆の信頼を失ったツァーリ公認の官僚」から内閣を組織しなければならなかった。カデット(立憲民主党)は、皇帝が改革に強固に反対している事実を知り、十月詔書に示された約束を果たすことができるかどうかについて疑念をいだいた[93]

ウィッテは、ツァーリの政権はロシアを、市民的自由が保障された法治国家によって基礎づけられた、「個人的で公共的なイニシアティブ」が機能する「近代的産業社会」へと変革することによってのみ革命の脅威から救うことができると主張した[1]。しかし、十月詔書公布後も反体制派はより多くの譲歩を求め、少数民族自治を、農民土地を要求し、ロシアのほとんどの大都市では、極右勢力による知識人やユダヤ人を標的としたポグロムが起こった[89]。こういう状況のなかでウィッテは労働運動農民運動民族運動の鎮圧に強制力を用いたため、改革勢力からも失望の声が上がった[85]

1905年の露暦12月7日から19日まで(西暦12月20日 - 1906年1月1日)のモスクワ十二月蜂起ロシア語版は、1905年革命の最後に位置する本格的な人民運動であった[94]。蜂起側はバリケードを築いてパルチザン戦術を採用し、軍隊側と衝突を重ねたが、市の中心部を押さえられ、労働者たちが出身地の農村に帰り、他地区からの支援が途絶えて疲労と孤立のなか敗北した[94]12月16日レオン・トロツキーと残りのサンクトペテルブルク・ソビエト英語版の幹部委員が逮捕された[61]。1906年1月、大規模な懲罰隊が派遣された[94]。1906年2月、農業大臣ニコライ・クトラー英語版が辞任したが、ウィッテはアレクサンドル・クリヴォシェイン英語版の任命を拒否した。次の数週間で、憲法(ロシア帝国国家基本法)に変更と追加が行われ、ツァーリが外交政策の独裁権をもち、陸海軍の最高司令官であることが確認された。

大臣は、下院(ドゥーマ)ではなくニコライ2世に対してのみ責任を負うこととなった。「農民の問題」すなわち土地改革問題は大きな問題であった。 イワン・ゴレムイキンドミトリー・トレポフによれば、「怒れる公衆の集うドゥーマ」の権限は制限されなければならなかった。ボルシェヴィキは来たる選挙をボイコットした。ウィッテは、ニコライ2世が自ら示した譲歩を尊重するつもりはないと見極めた。危地を脱した専制政府では、内務省のピョートル・ドゥルノヴォやドミトリー・トレポフら秘密警察を握る反動路線が勢力を盛り返し、あくまで専制政治の維持を目論むニコライ2世もウィッテを嫌った[15]。政府部内の右派からは左寄りとみられ、新設されたドゥーマ(下院)でも信任が得られず、露暦1906年4月22日、ウィッテはドゥルノヴォとは意見があわず、これでは国会を乗り切ることはできないとして、第一国会召集の前に辞職した[15][84][89]。選挙では、パーヴェル・ミリュコーフ率いるカデット(立憲民主党)が大勝し、さらに、カデットを離れたものやナロードニキ主義的な勤労知識人たちが中心となったトルドヴィキが票を伸ばした[94]。彼らは身分的には農民であり、ツァーリ政府にとっては与党のきわめてとぼしい国会となった[94]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの後任の首相に保守派のイワン・ゴレムイキンを指名し、内務大臣にピョートル・ストルイピンを抜擢した[89]

晩年

死の床にあるウィッテ
セルゲイ・ウィッテの墓(アレクサンドル・ネフスキー大修道院内)。八端十字架が使われている

首相辞任後のウィッテは政治的権能を持たなかったが、その死に至るまで勅選の上院議員としてロシア財政の御意見番を務めた[95]。しかし、皇帝ニコライ2世は彼を嫌い続けた[95]1907年1月には、彼の家に爆弾が据え付けられていたのが発見されている。研究者のパーヴェル・アレクサンドロヴィチ・アレクサンドロフ英語版は、オフラーナ(ロシア帝国内務省警察部警備局)が関与していることを証明した[96][97]

1908年、駐英大使だった小村寿太郎が第2次桂内閣の外務大臣に就任するため、ロンドンを離れることとなったが、小村は途中でサンクトペテルブルクを訪れ、ウィッテと再会している[98]。小村はウィッテに、敵対した日露両国はいまや日露協商を結んだ友好国であり、ポーツマス会議のことも振り返れば夢のようであると述べたのに対し、ウィッテは、会議当時、自分の交渉は大成功ともてはやされ、小村は国民から大きな批判を受けたが、しかし、いまや評価は逆転していると応えている[98]。小村はシベリア鉄道を用いて日本に帰国した[98]

首相辞任後の彼は回想録を執筆し、1912年に書き上げた[95]。このことは、ロシアの支配階級のあいだでは周知のことであり、内容については皇帝も関心を払っており、何が書かれているか心配だったという[95]。回想録は彼の死後、1921年に出版されたが、激動のロシア近現代史を語る史料として重要である(→「著書」節参照)。

1914年サライェヴォ事件が起こると、ウィッテは「怪僧」グリゴリー・ラスプーチンにさえ近づいて、ロシアがこれに巻き込まれることに強く反対し、ロシアが関与した場合はヨーロッパは大きな災難に直面することを皇帝に進言したが、ニコライ2世はこれを無視した[95]。結局、ロシアは大軍を動員して第一次世界大戦に参戦した[99]

それから間もなく、セルゲイ・ウィッテは1915年3月13日脳腫瘍髄膜炎により露都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)の自宅で死去した[95]

ウィッテ伯の孫、L.K.ナルイシキン(1905年生)
ヴァレンティン・セローフの作品(1910年)

皇帝ニコライ2世は、ウィッテの訃報を聞いたとき、皇后にあてた手紙のなかで「心の安らぎをおぼえる」と書いている[95]。ウィッテには子どもがいなかった。しかし、彼の妻が最初の結婚でなした子を自身の養子とした。エドワード・ラジンスキーによれば、ウィッテは孫のレフ・キリロヴィチ・ナルイシキンに伯爵の称号が授与されるよう望んだというが、その後のレフの動向については何も知られていない。

葬儀はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院で執り行われたが、皇帝は侍従を参列させず、自身の名で花輪を贈ることもしなかった[95]。墓所も同修道院内にあり、文豪フョードル・ドストエフスキーや作曲家ピョートル・チャイコフスキーの墓地の向かい側にある[95]

旧宅

ウィッテの生前の住居は、サンクトペテルブルク地下鉄ゴーリコフスカヤ駅英語版のすぐ近く、カメンノオストロフスキー大通り英語版に所在し、ソヴィエト連邦成立後は音楽専門中学として利用されてきた[95]。爆弾設置事件後、ウィッテは冬の間、フランス南西部のビアリッツに移り、そこで回想録を書き始めた[100]。1908年にはサンクトペテルブルクに戻っている。

著書

  • 『ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命 上』『同 中』『同 下』 大竹博吉監修 1930年
  • 『ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命』原書房 1972年(OD版2004年)

その他、経済や鉄道に関する著作・論文がある。

ウィッテの生前、アメリカのある出版社が彼に回想録の出版権として100万ドルを提示したことがあったといわれているが、ウィッテはこれを拒否した[95]。また、ウィッテは自分の回想録の原稿が、死後ツァーリ政府によって没収されることを恐れ、妻のマチルダに命じて、マチルダ名義で外国の銀行に保管させ、さらに死の直前には他人名義でバイヨンヌの銀行に預け入れさせた[95]1917年ロシア革命後、西欧に亡命したマチルダは、1921年、彼の回想録を公表した[95]。最初、英語訳が、つづいてロシア語訳が刊行された[95][注釈 15]

日本の探偵作家である平林初之輔は、『ウイッテ伯回想記』を「個々の事件だけでも、たっぷり大抵の探偵小説位の面白さはある」と評している[102]

顕彰・叙勲

叙勲については上記の通り。なお、 リャザンクラスノダールニージニー・ノヴゴロドにキャンパスをもつ「モスクワ・セルゲイ・ウィッテ大学」(1997年にロシア科学・高等教育省の認可を受けた私立の教育機関)は彼の名声にちなんで命名された。

大衆文化での描写(演じた俳優)

脚注

注釈

  1. ^ この4人は、コリス・ポッター・ハンティントン英語版マーク・ホプキンズ・ジュニア英語版リーランド・スタンフォードチャールズ・クロッカー英語版で、セントラル・パシフィック鉄道を創設し、しばしば「ビッグ・フォー(英語: Big 4)」と称せられる →記事「ビッグ・フォー・ハウス」参照。
  2. ^ 起工式の約2週間前の1891年5月11日、皇太子ニコライは滋賀県大津で巡査津田三蔵の襲撃を受けて負傷する大津事件が起こっている[16]
  3. ^ 皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)はしかし、この種の公務は苦手であり、自身も性に合わないと感じていたようである[21]
  4. ^ マクドゥーガルは、蔵相時代のウィッテについて、全鉄道体制の「ツァーリ」と形容している[4]
  5. ^ 1890年代金融市場は資本が豊富であり、ウィッテはフランスから低利で借り入れた資金でロシア国内の負債を返済したのみならず、それにより10億ルーブルもの投資資金を捻出した[4]
  6. ^ 鉄道建設の現場労働者の多くは徒刑囚であったが、ウィッテは通常の賃金が支払われるべきと主張し、減刑も約束した[4]
  7. ^ 露清密約は、日露戦争中の1904年5月13日、清朝初代総理大臣の慶親王奕劻によってその存在が暴露され、5月18日、清国によって破棄された。
  8. ^ ただし、三国干渉と旅順占領とのあいだに絶対的な違いがあるかといえば、「ない」という見解もあり、ウィッテが回想録に記した自己弁護を全面的に信じることについては慎重であらねばならない[31]
  9. ^ ムラヴィヨフの突然死の原因は、彼が「中国の危機」についてウィッテから以前の行動を非難された直後のことであったため、自殺だったのではないかという風評も一時流れた。
  10. ^ ベゾブラーゾフは、1903年6月に設立された鴨緑江木材会社の責任者であり、鴨緑江流域に利害関係をもっていた[59]
  11. ^ 日本側はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた[76]
  12. ^ マクドゥーガルは、「ともあれ、和平はまとまった。ウィッテを除いて、だれ一人喜ばない和平だったが。」と記している[81]
  13. ^ 一方、ドイツ帝国政府にあっても、帝国宰相のベルンハルト・フォン・ビューローテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークはヨーロッパ内だけの攻守同盟では、ドイツのみ労多くしてロシアにとっては安逸なものであるとして反対意見を表明した[82]
  14. ^ 1917年の皇帝退位でさえ、このときの要求に同意するほどの大きな恥辱とは考えられなかった[88]
  15. ^ ウィッテの回想録の原稿は、現在、アメリカ合衆国のコロンビア大学ロシア・東欧史文化・文書館に保管されている[95][101]

出典

  1. ^ a b Figes(2014)p.41
  2. ^ Figes(2014)p.8
  3. ^ Figes(2014)p.217
  4. ^ a b c d e f g h i j k マクドゥーガル(1996)pp.69-71
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 和田(2002)pp.248-251
  6. ^ Sergei Witte – Russiapedia Politics and society Prominent Russians”. russiapedia.rt.com. 2020年6月1日閲覧。
  7. ^ Sergei Yulyevich Count Witte”. geni_family_tree. 2020年6月1日閲覧。
  8. ^ a b История России в портретах. В 2-х тт. Т.1. с.285-308 Сергей Витте”. www.peoples.ru. 2020年6月1日閲覧。
  9. ^ (ロシア語) Kto-is-kto.ru Archived 2009-07-10 at the Wayback Machine.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 和田(1994)pp.307-308
  11. ^ Harcave(2004)p.33
  12. ^ a b c d 井上(1990)p.22
  13. ^ Harcave(2004)p.42
  14. ^ Sergey Yulyevich, Count Witte - prime minister of Russia”. 2020年6月2日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h コトバンク「ウィッテ」
  16. ^ a b c d e f g 横手(2005)pp.26-29
  17. ^ Nad. Andr. Witte”. geni_family_tree. 2020年6月1日閲覧。
  18. ^ Peter Kropotkin (1901). “The Present Crisis in Russia”. The North American Review. http://www.revoltlib.com/?id=407. 
  19. ^ Boublikoff(1939)p.313
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 横手(2005)pp.29-33
  21. ^ a b 保田(2009)pp.110-111
  22. ^ a b 井上(1990)p.11
  23. ^ a b c d e 中野(2014)p.197
  24. ^ a b c ダニロフ他(2011)pp.238-239
  25. ^ a b c d e ダニロフ他(2011)pp.236-237
  26. ^ a b c d e f g h 和田(1994)pp.310-312
  27. ^ B. V. Ananich & R. S. Ganelin (1996) "Nicholas II," p. 378. In: D. J. Raleigh: The Emperors and Empresses of Russia. Rediscovering the Romanovs. The New Russian History Series.
  28. ^ Witte on economic tasks”. pages.uoregon.edu. 2020年6月3日閲覧。
  29. ^ a b c d e f g 和田(2002)pp.251-252
  30. ^ a b c ダニロフ他(2011)pp.245-246
  31. ^ a b c d e f g h i j k 和田(1994)pp.317-319
  32. ^ 隅谷(1974)p.215
  33. ^ a b 井上(1990)pp.23-25
  34. ^ a b マクドゥーガル(1996)pp.73-74
  35. ^ a b c 保田(2009)pp.145-146
  36. ^ 井上(1990)pp.36-40
  37. ^ a b c d e 中山(1990)pp.170-174
  38. ^ 隅谷(1974)p.233
  39. ^ a b 古屋(1966)pp.24-25
  40. ^ 佐々木(2002)pp.240-242
  41. ^ 飯塚(2016)pp.62-63
  42. ^ 原田(2007)pp.198-199
  43. ^ 横手(2005)pp.61-65
  44. ^ 御厨(2001)pp.381-383
  45. ^ a b 河合(1969)pp.71-74
  46. ^ 佐々木(2002)pp.266-267
  47. ^ 小林(2008)pp.28-29
  48. ^ a b c d e f g h i 横手(2005)pp.73-76
  49. ^ 佐々木(2002)pp.269-273
  50. ^ 古屋(1966)pp.58-59
  51. ^ a b c d e f g 和田(2002)pp.257-259
  52. ^ a b 佐々木(2002)pp.279-281
  53. ^ a b c d e 飯塚(2016)pp.99-102
  54. ^ a b c d 和田(1994)pp.332-333
  55. ^ 石和静「ロシアの韓国中立化政策 —ウィッテの対満州政策との関連で— 」
  56. ^ a b c d e f g h i 保田(2009)pp.136-138
  57. ^ 隅谷(1974)p.301
  58. ^ 横手(2005)pp.103-107
  59. ^ 中山(1990)pp.270-271
  60. ^ Ward, Sir Adolphus William (7 August 2018). “The Cambridge Modern History”. CUP Archive. 2020年6月4日閲覧。
  61. ^ a b Sergei Witte”. 2020年6月4日閲覧。
  62. ^ Riasanovsky(1977)p.446
  63. ^ Massie(1967)p.90
  64. ^ 片山(2011)pp.128-130
  65. ^ a b 保田(2009)pp.143-144
  66. ^ 和田(1994)pp.335-336
  67. ^ 和田(1994)pp.338-340
  68. ^ Harold Williams,Shadow of Democracy, p.11, 22
  69. ^ a b c 和田(1994)pp.346-349
  70. ^ The memoirs of Count Witte”. Garden City, N.Y. Doubleday, Page (7 August 2018). 2020年6月3日閲覧。
  71. ^ Williams, Shadow of Democracy, p.77
  72. ^ Williams, Shadow of Democracy, pp.22-23
  73. ^ a b c d e f 和田(2002)pp.265-267
  74. ^ a b c d e f 横手(2007)pp.191-194
  75. ^ a b c d e 隅谷(1974)pp.311-312
  76. ^ a b c d 井上(1990)pp.96-101
  77. ^ a b c d e f 古屋(1966)pp.203-206
  78. ^ 原田(2007)p.220
  79. ^ a b c 保田(2009)pp.180-181
  80. ^ a b ダニロフ他(2011)p.262
  81. ^ マクドゥーガル(1996)p.125
  82. ^ a b c 中山(1975)pp.297-298
  83. ^ a b Mombauer, Annika; Deist, Wilhelm. The Kaiser: New Research on Wilhelm II's Role in Imperial Germany. Cambridge University Press, 2003. p.119.より引用
  84. ^ a b c d e f g h i 高田(1994)pp.366-369
  85. ^ a b c d e f g h 保田(2009)pp.192-196
  86. ^ a b c d e Figes(2014)p.191
  87. ^ Scenarios of Power, From Alexander II to the Abdication of Nicholas II, by Richard Wortman, pg. 398
  88. ^ a b Figes(2014)p.192
  89. ^ a b c d e 保田(2009)pp.196-199
  90. ^ a b ダニロフ他(2011)p.266
  91. ^ V.I.Gurko (7 August 2018). “Features And Figures Of The Past Government And Opinion In The Reign Of Nicholas II”. Russell & Russell. 2020年6月5日閲覧。
  92. ^ Witte's Memoirs, p.241
  93. ^ Figes(2014)pp.194-195
  94. ^ a b c d e 和田(1994)pp.385-389
  95. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 保田(2009)pp.199-201
  96. ^ «ПОКУШЕНИЕ НА МОЮ ЖИЗНЬ», «Воспоминания» С. Ю. Витте, т. II-ой, 1922 г. Книгоиздат. «Слово» (ロシア語)
  97. ^ Покушение на графа Витте (2011-10-15), сканер копии — Юрий Штенгель (ロシア語)
  98. ^ a b c 片山(2011)pp.197-201
  99. ^ 中山(1990)p.319
  100. ^ Design, Pallasart Web. “Count Sergei Iulevich Witte - Blog & Alexander Palace Time Machine”. www.alexanderpalace.org. 2020年6月1日閲覧。
  101. ^ Harcave(2004)p.xiii
  102. ^ 平林初之輔「ウイツテ伯回想記その他」(1930)

参考文献

  • 飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』吉川弘文館、2016年12月。ISBN 978-4-642-06814-7 
  • 井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』中央公論新社中公新書〉、1990年11月。ISBN 4-12-100992-4 
  • 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論新社中公新書〉、1995年3月。ISBN 4121012321 
  • 片山慶隆『小村寿太郎』中央公論新社〈中公新書〉、2011年11月。ISBN 978-4-12-102141-0 
  • 河合秀和「1 ヨーロッパ帝国主義の成立」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。 
  • 小林英夫『〈満洲〉の歴史』講談社講談社現代新書〉、2008年11月。ISBN 978-4-06-287966-8 
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9 
  • 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社中公文庫〉、1974年8月。ISBN 4-12-200131-5 
  • 中山治一『世界の歴史13 帝国主義の時代』中央公論社〈中公文庫〉、1975年5月。 
  • 中山治一『世界の歴史21 帝国主義の開幕』河出書房新社河出文庫〉、1990年3月。ISBN 978-4-00-431044-0 
  • 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年2月。ISBN 978-4-00-431044-0 
  • 古屋哲夫『日露戦争』中央公論社〈中公新書〉、1966年8月。ISBN 4-12-100110-9 
  • 御厨貴『日本の近代5 明治国家の完成』中央公論新社、2001年5月。ISBN 4-12-490103-8 
  • 保田孝一『最後の皇帝 ニコライ二世の日記』講談社〈講談社学術文庫〉、2009年10月。ISBN 978-4-06-291964-7 
  • 横手慎二『日露戦争史』中央公論新社〈中公新書〉、2005年4月。ISBN 4-12-101792-7 
  • 和田春樹(編) 編『ロシア史』山川出版社〈新版世界各国史22〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1 
    • 和田春樹 著「第6章 ロシア帝国の発展」、和田(編) 編『ロシア史』山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年。 
    • 和田春樹 著「第7章 ロシア帝国の動揺」、和田(編) 編『ロシア史』山川出版社〈新版世界各国史〉、2002年。 
  • 田中陽児倉持俊一・和田春樹(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4 
    • 和田春樹 著「第7章 近代ロシアの国家と社会」、田中・倉持・和田(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年。 
    • 和田春樹 著「第8章 日露戦争」、田中・倉持・和田(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年。 
    • 高田和夫 著「第9章 1905年革命」、田中・倉持・和田(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年。 
  • ウォルター・マクドゥーガル英語版 著、加藤祐三 訳『太平洋世界 下』共同通信社、1996年12月。ISBN 4-7641-0373-7 
  • A.ダニロフ、L.コスリナ、M.ブラント 著、吉田衆一(監修) 編『ロシアの歴史(下)19世紀後半から現代まで』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2011年7月。ISBN 4-06-207533-4 
  • Ananich, B. V. and S. A. Lebedev, "Sergei Witte and the Russo-Japanese War." International Journal of Korean History 7.1 (2005): 109-131. Online
  • Boublikoff, A.A. "A suggestion for railroad reform". In: Buehler, E.C. (editor) "Government ownership of railroads", Annual Debater's Help Book (vol. VI), New York, Noble and Noble, 1939; pp. 309–318. Original in journal North American Review, vol. 237, pp. 346+. (This issue is 90% about Russian railways.)
  • Davis, Richard Harding, and Alfred Thayer Mahan. (1905). The Russo-Japanese war; a photographic and descriptive review of the great conflict in the Far East, gathered from the reports, records, cable despatches, photographs, etc., etc., of Collier's war correspondents New York: P. F. Collier & Son. OCLC: 21581015
  • Figes, Orlando (2014). A People's Tragedy: The Russian Revolution 1891–1924. London: The Bodley Head. ISBN 9781847922915 
  • Harcave, Sidney (2004). Count Sergei Witte and the Twilight of Imperial Russia: A Biography. New York: Armonk. ISBN 978-0-7656-1422-3 
  • Massie, Rovert.K (1967). Nicholas and Alexandra (1st Ballantine ed.). Ballantine Books. ISBN 0-345-43831-0 
  • Riasanovsky, Nicholas Valentine (1977). A History of Russia. Oxford University Press. ISBN 978-0195021295 
  • Williams, Harold (2012). Shadow of democracy. Lulu.com. ISBN 978-1300363569 

関連項目

外部リンク

先代
イワン・ヴィシネグラツキーロシア語版
ロシア帝国大蔵大臣(財務大臣)
1892年8月30日-1903年8月16日
次代
エドワルド・プレスケ
先代
アドルフ・ギッベネット
ロシア帝国運輸通信大臣
1892年2月-1892年8月
次代
アポロン・クリボシェイン
先代
イワン・ドゥルノヴォ
ロシア帝国大臣委員会議長
1903年-1905年
次代
廃止
先代
新設
ロシア帝国首相
1905年11月6日-1906年5月5日
次代
イワン・ゴレムイキン