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「愛新覚羅奕譞」の版間の差分

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[[道光]]30年([[1850年]])、兄の咸豊帝が即位すると醇郡王に封ぜられた。[[咸豊]]11年([[1861年]])に咸豊帝が崩御すると[[東太后]]・西太后ともう1人の兄・恭親王奕訢に協力して[[クーデター]]を起こし、[[怡親王]][[愛新覚羅載垣|載垣]]、[[鄭親王]][[愛新覚羅端華|端華]]、[[粛順]]らを排斥([[辛酉政変]])、甥の[[同治帝]]が即位すると都統、御前大臣、領侍を命ぜられ、親王に上った。西太后から謙虚な姿勢を気に入られ様々な特典を与えられたが、政争に巻き込まれないよう慎重に日々を過ごした<ref>加藤、P110 - P122、P151 - P154。</ref>。
[[道光]]30年([[1850年]])、兄の咸豊帝が即位すると醇郡王に封ぜられた。[[咸豊]]11年([[1861年]])に咸豊帝が崩御すると[[東太后]]・西太后ともう1人の兄・恭親王奕訢に協力して[[クーデター]]を起こし、[[怡親王]][[愛新覚羅載垣|載垣]]、[[鄭親王]][[愛新覚羅端華|端華]]、[[粛順]]らを排斥([[辛酉政変]])、甥の[[同治帝]]が即位すると都統、御前大臣、領侍を命ぜられ、親王に上った。西太后から謙虚な姿勢を気に入られ様々な特典を与えられたが、政争に巻き込まれないよう慎重に日々を過ごした<ref>加藤、P110 - P122、P151 - P154。</ref>。


[[光緒]]元年([[1875年]])、同治帝が子を残さずに死去すると、西太后は自身の妹を母とする奕譞の第2子載湉を同治帝の子として即位させた(光緒帝)。奕譞は実子の即位と共に官職を退いたが、光緒10年([[1884年]])の[[清仏戦争]]の処理をめぐって恭親王が[[軍機大臣]]を罷免されると代わって起用され、[[総理海軍事務衙門]]大臣にも任じられ海軍を統括、[[李鴻章]]と[[慶親王]][[愛新覚羅奕キョウ|奕劻]]を補佐役として活動に当たった。
[[光緒]]元年([[1875年]])、同治帝が子を残さずに死去すると、西太后は自身の妹を母とする奕譞の第2子載湉を同治帝の子として即位させた(光緒帝)。奕譞は実子の即位と共に官職を退いたが、光緒10年([[1884年]])の[[清仏戦争]]の処理をめぐって恭親王が[[軍機大臣]]を罷免されると代わって起用され、[[総理海軍事務衙門]]大臣にも任じられ海軍を統括、[[李鴻章]]と[[慶親王]][[愛新覚羅奕|奕劻]]を補佐役として活動に当たった。


以後も西太后や周囲と良好な関係を保ち、光緒17年(1891年)に50歳で死去。5男で光緒帝の異母弟載灃が爵位を継ぎ醇親王となった。
以後も西太后や周囲と良好な関係を保ち、光緒17年(1891年)に50歳で死去。5男で光緒帝の異母弟載灃が爵位を継ぎ醇親王となった。

2020年7月18日 (土) 02:39時点における版

醇親王奕譞

愛新覚羅 奕譞(あいしんかくら えきけん、アイシンギョロ・イフワン、満州語ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᡞ ᡥᡠᠸᠠᠩ
、転写:aisin-gioro i-huwan、1840年10月16日 - 1891年1月1日)は、の皇族。道光帝の第7子で、初代醇親王。母は荘順皇貴妃咸豊帝惇親王奕誴恭親王奕訢の弟。正室は西太后の妹。息子は載湉(光緒帝)、載灃(第2代醇親王、宣統帝の実父)、載洵、載濤など。は賢。

道光30年(1850年)、兄の咸豊帝が即位すると醇郡王に封ぜられた。咸豊11年(1861年)に咸豊帝が崩御すると東太后・西太后ともう1人の兄・恭親王奕訢に協力してクーデターを起こし、怡親王載垣鄭親王端華粛順らを排斥(辛酉政変)、甥の同治帝が即位すると都統、御前大臣、領侍を命ぜられ、親王に上った。西太后から謙虚な姿勢を気に入られ様々な特典を与えられたが、政争に巻き込まれないよう慎重に日々を過ごした[1]

光緒元年(1875年)、同治帝が子を残さずに死去すると、西太后は自身の妹を母とする奕譞の第2子載湉を同治帝の子として即位させた(光緒帝)。奕譞は実子の即位と共に官職を退いたが、光緒10年(1884年)の清仏戦争の処理をめぐって恭親王が軍機大臣を罷免されると代わって起用され、総理海軍事務衙門大臣にも任じられ海軍を統括、李鴻章慶親王奕劻を補佐役として活動に当たった。

以後も西太后や周囲と良好な関係を保ち、光緒17年(1891年)に50歳で死去。5男で光緒帝の異母弟載灃が爵位を継ぎ醇親王となった。

海軍衙門大臣時代に海軍費用を頤和園の建設費に流用したことは悪名高く、清の主力海軍だった北洋艦隊は10年間武器の更新が出来ず艦隊の追加購入も不可能になり、日清戦争における敗北の遠因になった。一方で謙虚に振る舞い西太后や栄禄ら保守派(后党)だけでなく、光緒帝の側近翁同龢ら革新派(帝党)とも親交を結んでいたことは緩衝地帯として両派の衝突を防いでいたが、奕譞の死により対立は避けられなくなり、日清戦争の敗北で両派の対立は決定的となり以後の政争に繋がった[2]

脚注

  1. ^ 加藤、P110 - P122、P151 - P154。
  2. ^ 並木、P232 - P237、加藤、P176 - P178、P185 - P188、P200 - P206。

参考文献