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ジドゥとその次男の喇布(1681年没)は、[[順治]]期後半から[[康熙]]期初期の軍事作戦に参加し、[[鄭成功]]や[[呉三桂]]の軍勢と戦った<ref>Kennedy (1943c): 397; Kennedy (1943d): 439.</ref>。 |
ジドゥとその次男の喇布(1681年没)は、[[順治]]期後半から[[康熙]]期初期の軍事作戦に参加し、[[鄭成功]]や[[呉三桂]]の軍勢と戦った<ref>Kennedy (1943c): 397; Kennedy (1943d): 439.</ref>。 |
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ジルガランの13世孫の[[端華]](鄭親王)と[[粛順]](端華の弟)は、[[咸豊]]期(1851年 - 1861年)に政治権力を握っていた。彼らは幼帝である[[同治帝]](在位:1862年 - 1874年)の顧命大臣(摂政)に任命された8人のうちの2人となったが、[[辛酉政変]]によって廃され、[[西太后|慈禧太后(西太后)]]と[[恭親王]][[愛新覚羅奕 |
ジルガランの13世孫の[[端華]](鄭親王)と[[粛順]](端華の弟)は、[[咸豊]]期(1851年 - 1861年)に政治権力を握っていた。彼らは幼帝である[[同治帝]](在位:1862年 - 1874年)の顧命大臣(摂政)に任命された8人のうちの2人となったが、[[辛酉政変]]によって廃され、[[西太后|慈禧太后(西太后)]]と[[恭親王]][[愛新覚羅奕訢|奕訢]]が権力を握った。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年7月18日 (土) 02:37時点における版
ジルガラン | |
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和碩鄭親王 | |
在位期間 1636年 - 1655年 (和碩鄭親王) 1643年 - 1647年 (摂政) | |
次代 | ドルゴン (摂政) |
出生 | 1599年 |
死亡 | 1655年6月11日(55~56歳) |
実名 | 愛新覚羅済爾哈朗 |
諡号 | 鄭献親王 |
王室 | 愛新覚羅氏 |
父親 | シュルハチ |
ジルガラン | |||||||
繁体字 | 濟爾哈朗 | ||||||
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簡体字 | 济尔哈朗 | ||||||
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ジルガラン(済爾哈朗、満洲語: ᠵᡳᡵᡤᠠᠯᠠᠩ、メレンドルフ式転写: jirgalang、1599年 - 1655年6月11日)は、清朝初期の愛新覚羅氏の満州貴族、太祖ヌルハチの弟シュルハチ(舒爾哈斉)の6番目の息子である。摂政や政治・軍事における指導者を務めた人物であり、1638年から1643年までは明朝打倒のための数多くの軍事作戦を担い、1643年のホンタイジ(太宗)の死後には、ジルガランは幼い順治帝の2人の摂政のうちの一人となった。しかし、その後間もない1644年10月にほとんどの権力をもう一人の摂政ドルゴンに明け渡すことになり、最終的にジルガランは1647年に摂政の地位から追い落とされた。1650年のドルゴンの死後、ジルガランはドルゴンの旧支持者の一掃に努めた。ジルガランは10人の和碩親王の一人であり、その子孫は代々、鉄帽子王としての爵位を認められた。
1643年以前の功績
1627年、ジルガランは朝鮮への第一次侵攻(丁卯の役)に兄のアミン(阿敏)の指揮下で参加した[1]。1630年、アミンは明朝に対する敗戦の責により鑲藍旗の指揮権を剥奪され、ヌルハチは代わりにジルガランにその地位を与えた[1]。ジルガランはダイシャン、マングルタイ、ホンタイジ本人と共に、四大貝勒の一人として明朝とチャハル・モンゴルとの数多くの戦いに参加した[1]。1636年には和碩鄭親王の位が与えられ、その子々孫々の継承が認められた[1]。1642年に明の遼東の要衝都市錦州を包囲する軍を指揮したが、同年4月から1年以上の間抵抗を受けた[2]。
摂政時代(1643年 - 1647年)と失脚(1647年 - 1650年)
ドルゴンがムクデンに留まっている間、1643年11月から12月頃にジルガランは北京への道を塞ぐ要塞である山海関への攻撃に送られた[3]。翌1644年1月から2月頃、ジルガランはすべての公文書において自分の名をドルゴンの後に置くことを求めた[3]。ジルガランは有能な軍事指導者であったが、国事には興味を持たなかったようであり、2月17日に公務の全権をドルゴンに自ら進んで明け渡した[4]。同年6月初旬の清軍の北京入城に、ジルガランが立ち会うことはなかった。
1647年には摂政の位を退かされ、代わってドルゴンの弟ドド(多鐸)がその位に就いた[5]。摂政の地位は失った後も、ジルガランは変わらず軍事指揮権を握っていた。しかし翌1648年3月、ドルゴンはジルガランを様々な罪を犯したとして捕え、親王から郡王へと降格させた[6]。その後、同年のうちにジルガランは中国南部での南明軍との戦いに送られている。1649年初め、いくつかの戦勝を挙げた後、湖南の湘潭の住人への6日間にわたる大虐殺を命じた[7]。1650年に南明最後の君主永暦帝を破り、北京へと凱旋した[8]。
ジルガラン派(1651年 - 1655年)
ジルガランに率いられた、生前のドルゴンとは対立していた満州貴族のグループを、歴史家のロバート・オクスナムは「ジルガラン派」と呼んでいる。彼らは1650年12月31日のドルゴンの死の後に権力を取り戻した[9]。ドルゴンの兄アジゲがドルゴンの後を継ごうと画策すると、ジルガランの一派は1651年アジゲを捕えた[10]。ジルガランは1655年に死ぬまで、清朝宮廷で大きな権力を保ち続けた[11]。康熙帝の輔政四大臣(摂政)オボイ、エビルン、ソニン、スクサハはジルガランの支持者であった[12]。
死後と子孫
1655年6月11日[13]、ジルガランは病死した。次男のジドゥ(済度、1633年 – 1660年)はすぐさま鄭親王を襲爵した。しかしこの爵位は、鄭親王から簡親王へと名称を変えられることになった。再び「鄭親王」となるのは、1778年に乾隆帝がジルガランを清の明に対する勝利の功労者として称えて太廟へ祀ることを認めた時だった[14]。
ジドゥとその次男の喇布(1681年没)は、順治期後半から康熙期初期の軍事作戦に参加し、鄭成功や呉三桂の軍勢と戦った[15]。
ジルガランの13世孫の端華(鄭親王)と粛順(端華の弟)は、咸豊期(1851年 - 1861年)に政治権力を握っていた。彼らは幼帝である同治帝(在位:1862年 - 1874年)の顧命大臣(摂政)に任命された8人のうちの2人となったが、辛酉政変によって廃され、慈禧太后(西太后)と恭親王奕訢が権力を握った。
脚注
- ^ a b c d Kennedy (1943a): 397.
- ^ Wakeman (1985), 221-222.
- ^ a b Li Zhiting (2003): 368.
- ^ Wakeman (1985), vol. 1: 299.
- ^ Wakeman (1985), 874.
- ^ Wakeman (1985), 881.
- ^ Wakeman (1985), 767.
- ^ Wakeman (1985), 895.
- ^ Oxnam (1975): 47-49.
- ^ Fang (1943): 5; Wakeman (1985), 895.
- ^ Wakeman (1985), 928.
- ^ Oxnam (1975): 38.
- ^ Kennedy (1943a): 398.
- ^ Kennedy (1943a): 398; Kennedy (1943b): 214.
- ^ Kennedy (1943c): 397; Kennedy (1943d): 439.
参考文献
- Kennedy, George A. (1943a). "Jirgalang." In Eminent Chinese of the Ch'ing Period (1644-1912), edited by Arthur W. Hummel, pp. 397–98. Washington: United States Government Printing Office.
- Kennedy, George A. (1943b). "Daišan." In Eminent Chinese of the Ch'ing Period (1644-1912), edited by Arthur W. Hummel, p. 214. Washington: United States Government Printing Office.
- Kennedy, George A. (1943c). "Jidu." In Eminent Chinese of the Ch'ing Period (1644-1912), edited by Arthur W. Hummel, p. 397. Washington: United States Government Printing Office.
- Kennedy, George A. (1943d). "Labu." In Eminent Chinese of the Ch'ing Period (1644-1912), edited by Arthur W. Hummel, p. 439-40. Washington: United States Government Printing Office.
- Li Zhiting 李治亭 (editor in chief). (2003). Qingchao tongshi: Shunzhi juan 清朝通史: 順治卷 ["General History of the Qing dynasty: Shunzhi volume"]. Beijing: Zijincheng chubanshe.
- Oxnam, Robert B. (1975). Ruling from Horseback: Manchu Politics in the Oboi Regency, 1661-1669. Chicago and London: University of Chicago Press.
- Wakeman, Frederic (1985). The Great Enterprise: The Manchu Reconstruction of Imperial Order in Seventeenth-Century China. Berkeley and Los Angeles: University of California Press.