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[[道光]]16年([[1836年]])に[[進士]]になり、[[翰林院]]編修となった。[[咸豊]]2年([[1852年]])に吏部侍郎に抜擢され、江西学政となった。翌3年([[1853年]])、[[太平天国の乱|太平天国]]軍が[[武昌区|武昌]]から[[九江市|九江]]に侵攻した時は[[南昌市|南昌]]へ援軍に駆けつけた。その後も度々[[江西省]]・[[安徽省]]の軍事について上奏し、多くが容れられた。
[[道光]]16年([[1836年]])に[[進士]]になり、[[翰林院]]編修となった。[[咸豊]]2年([[1852年]])に吏部侍郎に抜擢され、江西学政となった。翌3年([[1853年]])、[[太平天国の乱|太平天国]]軍が[[武昌区|武昌]]から[[九江市|九江]]に侵攻した時は[[南昌市|南昌]]へ援軍に駆けつけた。その後も度々[[江西省]]・[[安徽省]]の軍事について上奏し、多くが容れられた。


咸豊9年([[1859年]])、左都御史に昇進。翌10年([[1860年]])、兵部尚書として[[アロー戦争]]で徹底抗戦を主張した。和議がなると戸部尚書に遷り、咸豊11年([[1861年]])に発生した[[辛酉政変]]で[[西太后]]・[[東太后]]・[[恭親王]][[愛新覚羅奕キン|奕訢]]らを支持、[[同治帝]]が即位すると[[軍機大臣]]上行走となった。同治元年(1862年)に[[陝甘総督]]代理となり、[[西寧市|西寧]]の[[サラール族]]の反乱を鎮圧した。同年死去。太子太保と文忠の[[諡号]]が贈られた。
咸豊9年([[1859年]])、左都御史に昇進。翌10年([[1860年]])、兵部尚書として[[アロー戦争]]で徹底抗戦を主張した。和議がなると戸部尚書に遷り、咸豊11年([[1861年]])に発生した[[辛酉政変]]で[[西太后]]・[[東太后]]・[[恭親王]][[愛新覚羅奕|奕訢]]らを支持、[[同治帝]]が即位すると[[軍機大臣]]上行走となった。同治元年(1862年)に[[陝甘総督]]代理となり、[[西寧市|西寧]]の[[サラール族]]の反乱を鎮圧した。同年死去。太子太保と文忠の[[諡号]]が贈られた。


[[経学]]・[[歴史学|史学]]に通じ、[[詩]]・[[篆刻]]などを善くした。著作に『沈文忠公集』『広印人伝』がある。
[[経学]]・[[歴史学|史学]]に通じ、[[詩]]・[[篆刻]]などを善くした。著作に『沈文忠公集』『広印人伝』がある。

2020年7月18日 (土) 02:37時点における版

沈 兆霖(しん ちょうりん、Shen Zhaolin1801年 - 1862年)は、末の官僚。字は尺生、号は朗亭または子滎浙江省銭塘出身。

道光16年(1836年)に進士になり、翰林院編修となった。咸豊2年(1852年)に吏部侍郎に抜擢され、江西学政となった。翌3年(1853年)、太平天国軍が武昌から九江に侵攻した時は南昌へ援軍に駆けつけた。その後も度々江西省安徽省の軍事について上奏し、多くが容れられた。

咸豊9年(1859年)、左都御史に昇進。翌10年(1860年)、兵部尚書としてアロー戦争で徹底抗戦を主張した。和議がなると戸部尚書に遷り、咸豊11年(1861年)に発生した辛酉政変西太后東太后恭親王奕訢らを支持、同治帝が即位すると軍機大臣上行走となった。同治元年(1862年)に陝甘総督代理となり、西寧サラール族の反乱を鎮圧した。同年死去。太子太保と文忠の諡号が贈られた。

経学史学に通じ、篆刻などを善くした。著作に『沈文忠公集』『広印人伝』がある。

出典

先代
張祥河
都察院漢左都御史
1859年 - 1860年
次代
万青藜
先代
陳孚恩
兵部漢尚書
1860年
次代
朱鳳標
先代
周祖培
戸部漢尚書
1860年 - 1862年
次代
羅惇衍
先代
麟魁
陝甘総督
1862年
次代
熙麟